近頃LGBTの気運が高まっておりますな。
しかしご存知のようにイングランドで同性愛が合法化されたのは1967年と割と最近なんですよね。
ゲイであるというだけで刑事裁判にかけられ有罪となり刑務所に服役するなんて現在では考えられない事です。
そう言えば、映画「モーリス」で主人公モーリス(ジェームズ・ウィルビー)と愛し合うクライヴ(ヒュー・グラント)が、学生時代の友人が同性愛者として逮捕されたのを知り愕然とするシーンがありましたっけ。
(「モーリス」1987年イギリス/141分)
「モーリス」は「君の名前で僕を呼んで」の脚本のジェームズ・アイヴォリーが1987年に監督したイギリス映画です。
20世紀の初め英国のケンブリッジを舞台にモーリスとクライヴは愛し合います。
しかしこの時代は同性同士の関係が社会的に認められていなかった時代であり、クライヴは世間体を守る為にモーリスへの愛を捨てようと女と結婚してしまうんです。
え~?だって元はと言えば君が目覚めさせたのに・・・
と、純粋なモーリスは苦しむ。
そこへ現れたのがクライヴ邸の若い猟番のアレック(ルパート・グレイヴス)です。
身分違いを乗り越えて二人で生きて行こうとする、このての映画では珍しく希望のある明るい最後になっております。
それとは対照的にクライヴは愛するモーリスを永遠に失ってしまうというわけです。
若き日のヒュー・グラントや英国の上流社会の暮らしや自然の描写がとても美しい作品です。
たとえ罪に問われても愛する人が隣にいればいいとアレックと共に生きる道を選択したモーリス。
激情にかられたような二人は果たしてこの後幸せになれたのでしょうか。
ゲイが罪というのは道徳的にけしからんというレベルではなく、本当に犯罪者として投獄されてしまうんですよね。
こうまで重く厳しいのはやはりキリスト教が背景にあるからなんでしょうか。
「モーリス」の原作は英国人作家E・M・フォースターが1913年に執筆した小説です。
その18年前の1895年に有名なオスカー・ワイルドの同性愛裁判が起こっています。
友人が同性愛者として逮捕されるエピソードはまさにこの事件を思わせます。
オスカー・ワイルド先生と言えばかつては腐女子必読の書(笑)と言われた「ドリアングレイの肖像」を書いたお方です。
この作品が発表されたのは1890年で、英国は産業革命によりこれまでにない大衆文化とモノが溢れ資本主義の発達で貧富の差が拡大しました。
ロンドンでは切り裂きジャック事件が起き、パリではエッフェル塔が建ち、日本では大日本帝国憲法が発布されています。
テレビも映画もない時代ですから戯曲が大衆の娯楽であり、ワイルド先生は作家としての名声だけでなく社交界の寵児としてももてはやされていたのです。
それは「ダンディーの元祖」とも言われる奇抜なファッションや気障な言動と、とにかく派手好きで人の心をつかむのも上手かったと思うよ。
そんな先生は30歳過ぎて出会った貴族の息子と恋仲になり人目もはばからず入れあげてるうちに彼の父上の怒りをかってしまうわけです。
アルフレッド・ダグラス(通称ボウジー)は先生より16歳年下で天使のように美しいけど、性格的にはわがままでちょっとどうなんだ~と危ぶまれる感じですが先生が気に入っちゃってるんだからしょうがない。
先生はすでに結婚して子までもうけていたが、女との結婚生活なんて世俗的でくだらぬものより男性同士の愛の方が崇高で美しいと感じていたのです。
(うーん。なんか決まってこういう時って女が貶められるパターン。奥さんはとてもいい人なんですよ)
先生の耽美やデカダンはその作品にとどまらず人生観でもあったのです。
元々この裁判はボウジーの父親を先生が告訴したものですが、応酬され自分自身のセンセーショナルな同性愛行為が裁かれる羽目になってしまったのです。
文筆家でもあったボウジーが書いた詩「二つの愛twoloves」の中の一節に「あえてその名を口にださぬ愛」という言葉が裁判で審問され、それはどういう愛なのか?と問われました。
この場合自分は同性愛者ではないと言って罪を逃れる選択や国外へ逃亡してしまう選択だってあったんです。
それをしなかったのは自分ならば論破出来るはずと自信過剰があったんでしょうね。
先生はこう語りました。
「あえてその名を口にださぬ愛」とは完全なほどに純粋な深い精神的な愛の事である。
シェイクスピアにしろミケランジェロにしろ偉大な芸術作品の決め手となったのはこの愛である。
だが今世紀ではまったく理解されていない。
この愛は今後も絶える事なく人々の間で幾度も幾度も繰り返されるだろう。
この素晴らしい愛をなぜ世間は理解しようとしないのか。
冷やかし嘲笑し時にはこのように晒し者にするのだ。
しかし先生の見通しははずれ、裁判は有罪となり重労働と懲役2年の判決を受けます。
世間は同性愛者を許さなかったのです。
先生をもてはやした大衆の目は軽蔑へと変わって行きました。
刑務所から戻っても返り咲く事もなく失意のまま亡くなっています。
あんなに大好きだったボウジーもしょせんは先生の金目当ての気まぐれなお坊ちゃんでしかなかったのです。
その名を口にできない愛とは、口にする事すなわちカムアウトする事でしょう。
それはこの時代では破滅を意味しているんですよね。
震撼したクライヴが自身のセクシャリティを隠す為に結婚した気持ちだって理解できます。
自分だってそうすると思う。
そう考えると背徳者と罵られながらも世間を変革するようなオスカーワイルド先生凄い人ですね。
当時のキリスト教の道徳観や因習に凝り固まった世間に対して真っ向勝負で闘ったんですもん。
世の中の常識的と言われる大人や秩序を重んじる人にとっては同性愛者は異なる価値観を持つ存在です。
だけどこの世界には唯一絶対なんてことがあるのでしょうか。
絶対これが正しいこれは間違っているとなぜ言い切れるのでしょうか。
世の中がもっと寛容になって、いつかフツーに皆が好きな人の名を口にできる日がくればいいなあと思う今日この頃です。