(青野春秋「スラップスティック」既刊5巻)
青野春秋の漫画「スラップスティック」は昭和の終わり頃、シングルマザーの母とやんちゃな兄との3人で暮らす小学生・春人の物語です。
青野氏の作品には、ゆるさの中に中年の哀愁を感じさせる「俺はまだ本気出してないだけ」とか、5人の美女と謎の同居をする男を描いた「百万円の女たち」などなどありますが、この作品は青野氏の子供時代を描いた自伝漫画です。
なおこの作品はコミックス版は3巻まで刊行されてますが、5月に発売された4巻・5巻は電子版のみです。
テレビドラマや映画やマンガの中に出てくる「家族たち」はいろいろな問題をかかえているけど特別な「絆」みたいなモノで結ばれている・・・
そんなモノはウソだと思っている・・・
「家族」こそが一番信用できないからだ・・・
こんな事を9歳の子供が考えているなんて誰が想像するでしょうか。
立花春人は9歳。9歳って小学3年生です。
男の子ならまだまだお母さんに甘えている年頃ですよ。
ところが春人の家はそんな生易しいものではないんです。
春人の家族は兄の秋介(15歳)と母親のとし子です。
この兄貴が問題で、 秋介はいわゆるヤンキーで家では春人を奴隷みたいにこき使ったり意味もなく暴力を振るってきます。
外ではガチで喧嘩が強いんですが、その強さはとし子と春人にとっては有効に使われる事はなく、二人はどんどん追い込まれてしまいます。
とし子はシングルマザーで二人の子供を養っていますが生活は困窮し仕事を掛け持ちして昼も夜も働いています。
なのに秋介が補導されたり喧嘩したりで問題を起こす度に責められ謝ってばかりです。
三人が暮らす家はボロボロの詰め所(勤務中の人が一時的に泊まったり仮眠したり待機する施設)でトイレは汲み取り式で風呂もありません。
思春期の秋介はこの貧乏な生活を心底憎んでいてイライラしては八つ当たりのように春人に暴力を振るい、とし子が怒り、二人は年中怒鳴りあっているという悪循環でどんどんダメな方へ突き進んでいってしまいます。
喜劇の影に見え隠れする悲劇
この物語は9歳の春人の目線で語られます。
青野氏の作風はシンプル過ぎて画力が高いように見えないのが特徴です。
春人から見た秋介の横暴な振る舞いやとし子の苦労がちょっぴりコミカルに描かれます。
カレーに朝の残りのシューマイを入れたり炒飯にキュウリが入っていたり、とし子のひどい料理センスに怒った秋介がちゃぶ台をひっくり返したりします。
こんな騒動はこの家では日常で夕飯が食べられなくなった春人が大泣きしている横で秋介ととし子が怒鳴りあうんだけど、とし子の頭にカレーが乗ってたり笑わせます。
「スラップスティック」とは、体を張ったコメディー映画の事で「どたばた喜劇」という意味らしいです。
この家庭は本当に悲劇だと思うんですが、一見喜劇にしか見えなくて笑ってしまいます。
でも絵柄のせいでコメディーかと思っていると強いペーソスを感じさせ、この二つが絶妙なので人間味を感じさせ奥深い作品になってるんです。
本当はすごく絵が上手いのにわざとヘタウマに描いてるという話を聞いた事あるんですが、あながちガセではないような気もします。
とぼけた中にどこか哀愁を感じさせる独特の世界観が私は好きです。
やがて春人の子供の世界にも、貧乏で片親で兄は不良という家庭環境の悪さは影を落とすようになってしまいます。
学校で春人を馬鹿にする先生がいたり(ああいう教師は貧困家庭の子だと見下してるのだ)友達の母親からこっそりと「ウチの子と仲良くしないで」などと言われたりするのです。
兄のような人間にはなりたくないと思ってるのに周囲の大人からこんな対応されたら春人だってグレてしまうかもしれないと思わせるのです。
春人が盲腸で入院したり秋介の喧嘩のとばっちりで怪我したりすると弟を心配する素振りを見せるので、やはり兄弟なんだなとほっこりする反面恐らくは秋介もまた今の春人のように貧困のせいでいわれなく差別され傷ついたのだろうと想像できるのです。
この辺の描写が上手くて、家庭環境や家族関係が原因でいじめられそうになる度に負けまいとして不良になるより選択肢がなかった秋介の悲しさみたいな物がしんみり伝わって来ます。
・・・俺は普通でいいんだよ。普通で!
なんで俺らはこんなに「不利」なんだ?
ある時秋介はそんな事をつぶやきます。
豊な国であるはずの日本の母子家庭の貧困率は非常に厳しい状況にあるって聞きます。
子育てと就労の両立は難しく、とし子も非正規雇用でしか働けません。
生活の為に昼夜働かねばならない環境はとし子を疲弊させ、子供たちの目を見て話す事も忘れてしまうのです。
それでもこの町には兄弟に優しくしてくれる人だっています。
「俺はまだ本気出してないだけ」の主人公を彷彿とさせるような隣家の「静男にいちゃん」や、その父親の居酒屋を営む「おじちゃん」は、兄弟をへんな先入観で見たり子供だと侮ったりもしません。
それから春人の行きつけの本屋のおばさんも好きだな。
親から放任されている子供を見る目に優しさがあるのです。
春人、お願いだからあんなふうにならないで
けれども春人は次第に学校で秋介のようにキレるようになります。
今までの春人とは別人みたいに凶悪な表情で乱暴な言葉を使う一瞬が秋介そっくりで痛ましい気持ちになります。
そしてとし子は春人に折檻するようになるのです。
「お願いだから、秋介のようにはならないで!」
とし子の声は悲痛で気持ちもわかるけど、いつも前向きで頑張り屋の母親がこんな事するなんてとショックでした。
これはもうしつけではなくて虐待なんですけど、とし子は気付かないんですよね。
春人に兄のようになって欲しくないから子供の為だと思ってるんです。
そもそもこの家庭に父親がいないのはとし子が離婚したからなんですが、夫の連れ子を自分が引き取ったらしいのです。
つまり兄弟ととし子とは血のつながりはないわけなんです。
いったいどんな理由があったのかはまだわかりませんが、秋介はとし子と言い争いになると事あるごとに「関係ないんだから黙ってろよ」とか言うんです。
それをとし子が泣きながら「関係なくない!」って言い返す場面は読んでて泣けちゃいました。
貧乏なうえに家族関係が複雑で、それでも そんないいお母さんなのに実は子供に虐待行為をしているなんて、家庭という密室は闇であり一番身近な存在が一番危険な存在なんだって事に暗澹とした気持ちになります。
家族ってなんだろう
夜になっても母親は仕事でいないし兄も帰って来ないから、一人で暗い夜道を歩いて銭湯に行き、弁当を買って食べてテレビを見る春人。
家族の中で一番小さいというポジションは受け身でいるしかないんですよね。
兄と母が怒鳴り合うのを見せられ心の中に色々抱えていても黙って見てるしかないんです。
それでも春人は成長するにつれ兄にも母にもそれぞれの思いがある事が段々とわかる様にはなります。
だけど家族に対しての愛憎ない交ぜの複雑な思いは抱えたままで大きくなって行くんです。
この家族はあまりにも貧乏でそしてバラバラなんです。
家族って何だろう。
これほど身近にいるのに難しい問題はないですよ。
でもこんな風に自分の家族が最低最悪だとか、自分の家がこの世で一番不幸だとか思っている人って案外いると思うんですよね。
みんな家族の悩みって外では話さないでしょ。
本当に深刻な悩みほど人には話せないもんですよ。
この作品を読んで自分も同じだったと声を上げる大人もいると思います。
救いの見えない現実にもがく兄弟の姿に、かつて子供だった自分を重ねて読ませる力を持ったちょっと不思議な漫画です。