実写映画化の話を聞き、つい読み返してしまった。
手塚治虫が1973年から74年に発表した「ばるぼら」は不思議な物語である。
書き出しが良いので引用してみる。
都会が何千万という人間を飲み込んで消化し、垂れ流した排泄物のような女
それがバルボラ
私が彼女に遭ったのは新宿駅
群集から少しはなれて、柱のかげにうずくまった彼女を見て、気分でも悪いのかと医務室へ連れてったのが最初である
ところが、そいつは慢性のアル中でここの常連だし薬用アルコールを飲み逃げされた事もあるのだと、気分悪いのはこっちだよと追い返されてしまうのである。
しかしヴェルレーヌの詩を口ずさむ薄汚れたフーテンの女を、なぜか「私」は家に連れ帰る。
フーテンつーのは、当時新宿駅に集まるヒッピー風の若者の事である。
この作品の主人公である美倉洋介は耽美主義をかざして文壇にユニークな地位を築いた流行作家だ。
30がらみのいつも黒いサングラスをかけたニヒルな男である。
しかし彼には異常性欲という人に知られたくない持病があり、外見はまったく健康体だが日夜その苦しみに苛まれているのだという。
時代の寵児である彼を、出版社の社長や同郷の代議士は自分の娘とくっつけようとする。
だが美倉はそんな娘にはまるで興味が持てなかった。
美倉のマンションへ居ついたバルボラは酒ばかり飲んでゴロゴロしてばかりで、若い女なのに自分が汚いのも気にせず、勝手に美倉の金を使ったりとまったくだらしない。
美倉の生活はぶち壊しになり、なぜこんな女を置いておくのだろうと思う。
バルボラも彼と諍いが起こるたびに飛び出してしまうのだが、しばらくするとまたひょっこり戻ってくるのである。
まったく奇妙な同棲生活なのだが、バルボラには何かあるような気がするのである。
何か引き出せる、書く意欲が湧いてくるのだ。
そんなバルボラが実はミューズだと言う者が現れる。
ミューズは芸術の女神だよ。
昔、詩人たちはその詩の冒頭でミューズの名を呼び加護と成功を祈ったのだ。
それを聞いた美倉は笑って信じなかったが、まるでバルボラに導かれるように「狼は鎖もて繋げ」という新作を書き上げ大ヒットしてしまうのだ。
ようやく彼女の存在価値がわかって来た頃、突然バルボラが目を疑うほどの成熟した美女へと豹変する。
まるで別人の女である。
一方、美倉に娘をもらえとしつこかった代議士が都知事選に立候補する事になり後援会長を頼まれるが、内心では自分の名前を利用しようとしてるだけだと気が進まないでいた。
すると代議士は突然倒れ重体となるのだが、美倉は部屋で呪いのブードゥー人形(藁人形に5寸釘を打つヤツと同じの)を見つける。
それは恐らくバルボラの仕業に違いない。
美倉はバルボラは現代に生きる魔女だと思い始める。
あの都会の排泄物とさえ形容したさえないフーテン女が、今やめくるめくような美女となって美倉を虜にしているのである。
美倉は彼女と結婚しようとまで入れあげるが、バルボラは黒ミサ式の結婚式をすると言い出すのである。
それは参加者全員が全裸となりヤギの生贄が登場しマリファナを回し飲む奇怪な結婚式であった。
しかし突如警察に踏み込まれ、結婚式は中止となりバルボラは行方不明となってしまう。
マスコミからスキャンダラスに書き立てられ、美倉の人気はぴったり止まり仕事はなくなってしまうのであった・・・
美倉が新宿駅でバルボラを拾う冒頭の場面が好きだ。
バルボラは薄汚れた格好で、駅の構内の柱の陰でうずくまっていたアル中の若い女だ。
彼女がふっつりと消息を絶ってからも、美倉は何度もその場所へ行ってみる。
あのへべれけのだらしない姿が無性に懐かしくて、もしかしたらと思って行ってしまう。
いつも黒いサングラスで表情を隠す美倉の、大人の男の切なさみたいのがいい。
流行作家である美倉が人知れず悩む異常性欲というのは、同時に耽美派作家としてなくてはならぬものである。
それが美倉のジレンマであり、彼はそのために刺激を求め、夜の町を彷徨し、女を求める。
しかし彼の恋の相手はデパートの美しい店員かと思えば実はマネキンだったり、アフガンハウンドを連れた美女かと思えば実は犬の方である。
アフガンハウンドは高貴な大型犬だが、そういえば時折散歩してるのを見かけると中に人が入ってそうな気がする。
美しい人形や犬を人間の女のように愛でるのは異常な行為だが、耽美で幻想的である。
恐らくこの異常な体験が美倉の作風となっているのであろう。
その現場へ毎回バルボラが飛び込んできてすべてを暴いてぶっ壊す。
また、美倉が抑え込んでいる不条理が暴走しようとするのを止めたりもする。
でも流行作家というのは大変である。
サイン会や講演会からマスコミのインタビューを受けたり、有名になった自分の名前を利用しようとする者が現れたり、ファンや取り巻きが家にやって来たり、なかなか執筆に専念できない。
ふと生前の手塚治虫もこんな感じだったんだろうなと思う。
クリエイターとしては天才だけど経営手腕という面ではまったくダメな人だったというから、雑念に振り回されるより漫画を描く事に専念したかったろう。
勝手に実印を持ち出したとバルボラをぶん殴ったりする場面も意味深である。
実印の重要性を力説する美倉の姿に手塚治虫の実体験を垣間見る気がする。
それにしても、手塚治虫の漫画はよく女をぶん殴る。
それがいいとか悪いじゃなく当たり前の事のように描くので、綺麗ごとばかり描かないとこが好きだ。
前半は美倉の異常体験やバルボラという不思議な女の存在で、とてもデカダンで耽美な怪奇物語である。
手塚治虫がこんな漫画描いてたのか、とちょっと驚くかもしれん。
惜しむらくはデカダンと手塚先生の絵柄があんまり合わないとこだけど、本質からは1ミリも狂ってないからいいよね。
この人はどんな作品でも描けるやっぱ天才なんだ。
バルボラが成熟した美女へと変身し二人が結ばれ美倉が彼女の虜になったあたりからは、急に現実味を帯び美倉という小説家の狂気の物語となる。
バルボラが消え落ち目になった美倉は何年もバルボラを探し求める。
大阪に似た女がいると聞けば駆け付け、その女はどう見てもバルボラなのだが自分の名は「ドルメン」だと言い美倉の事も知らないと言う。
まったくもう、美倉と一緒になって読み手も頭がこんがらがってくるのである。
バルボラを追い求め殺害してしまった美倉は自殺を図る。
その時同じ小説家として三島由紀夫や川端康成の死に思いを馳せるのが悲痛だ。
自死に至る小説家の懊悩は我々などには思いも及ばない。
美倉の自殺は未遂に終わるが、彼女の死体は見つからず新聞のどこを見ても事件など起こっていないのである。
バルボラに翻弄されているようで、すべては美倉の狂気が引き起こした事ではないのか。
そう考えるとバルボラでさえ本当にいたのだろうかと思ってしまうのだ。
美倉はラストで一つの小説を書きあげる。
それはまったく怪奇と不条理に満ちた私小説である。
その小説は「ばるぼら」という題で、新宿駅でバルボラを拾う冒頭のシーンで始まる。
つまりこの物語のラストはまた最初のシーンに巻き戻るという凝った作りなのである。
美倉は世間から姿を消してしまうが、小説は大ヒットするのだ。
作家が消えても作品は残ると手塚治虫は言いたかったのかもしれないな。
映画は稲垣吾郎さんと二階堂ふみちゃんがキャスティングされたらしい。
原作ではけっこう裸のシーンが多いから余すところなく実写化されるといいな。