わざわざ説明するまでもないが、エヴェレストは世界最高峰の山だ。
この山が初登頂されたのは1953年、ニュージーランド人のヒラリーとネパール人シェルパのテンジンによってである。
しかしこれよりおよそ29年前の1924年にエヴェレストの頂上は二人の人間によって踏まれていた可能性がある。
それは、マロリーとアーヴィンである。
この二人はエヴェレスト山頂を目指したが頂上付近で行方不明となってしまったのである。
きっと何か事故があったのだが、問題はその事故がエヴェレストの頂上を踏む前だったのか踏んだ後だったのか、という事である。
マロリーとアーヴィンがもし頂上を踏んでから事故にあったのだとしたら、エヴェレストの初登頂者はヒラリーとテンジンじゃなくなるからだ。
それを知る方法が実はある。
二人はカメラを持って頂上に向かっていた。
もし頂上を踏んでいれば必ずそのカメラで写真を撮っているはずだ。
そしてそのカメラのフィルム(乾板)は、マイナス20度からマイナス40度という温度で保存されているため現像が可能なのである。
このカメラが、ある時ネパールのカトマンズの古物商に並んでいるのを主人公が偶然発見する。
というのが、この物語のエピローグなのだが夢枕獏の原作がとっても面白いのである。
2016年には実写映画化もされて、主人公の深町に岡田准一くん、羽生丈二が阿部寛さんだったから期待して見に参じたが・・・これはちょっとトホホな出来栄えだったのお。
で、2000年に連載されたこの漫画版では作画が谷口ジローさんである。
谷口ジローさんは残念ながら2017年に亡くなってしまったがホントに絵がうまいねえ。
とにかく山が素晴らしいの。
標高8000メートルを超える場所というのは雪と氷に閉ざされた世界で人は生きられない、まさに神の領域である。
そんな荘厳で美しい山の描写が恐ろしいくらい精緻で、それは時に人格を持っているかのように単なる山を越えた特別な存在にも見えてくる。
もうひとコマひとコマが「おおっ!」とか「ええっ!」とか、思わず声が出ちゃうほどに凄い画力なのである。
さて、エヴェレスト初登頂の謎を解く可能性を秘めた古いカメラを深町誠(40)はカトマンズで見つけ購入するのだが、ホテルで盗まれてしまう。
深町はエヴェレスト遠征に参加するためやって来た登山家でカメラマンだが、遠征は二人の犠牲者を出し失敗に終わっていた。
今の深町は人生の方向性の定まらない迷える男である。
さっさと日本に戻ればいいのに戻る気にもなれず「自分は別に逃げてるわけじゃない」と言い訳しながらこの町にいるのだ。
そしてカメラの行方を追ううちに、ピカール・サン(毒蛇という意味)という男の家から盗まれたものだという事が判明する。
ところが深町の前に現れたピカール・サンは、かつて天才クライマーと呼ばれ数々の登攀記録を作りながら1985年のヒマラヤ遠征隊で起こした事件が元で登山界から姿を消した羽生丈二だったのである。
日本に帰国した深町は羽生について色々と調べてみる。
でも「あいつが今どうしてるかなんて気にしてるヤツは少ないよ」なんて言われるほど過去の評判は良くなかったのである。
岩壁登攀の才能とかは天才的だったけど、なんかもう登山に対する思いが強すぎちゃって、協調性がなく他人とうまくやれない人だったのだ。
また海外遠征に必要な資金が用意できず遠征に参加できなかった事もあったという。
この時は個人負担が一人百万円だってよ。
登山て金がかかるのねえ。
技術もないのに金のある奴は行けて、実力がある自分が行けない事が悔しくて羽生は荒れた。
やっぱ無名じゃ駄目、有名になればスポンサーがついて金も出るし・・・と、誰もやらなかった事をやろうと冬季の「谷川岳一ノ倉沢の鬼スラ」を始め数々の難所を攻略して名を挙げようとした。
「鬼スラ」ってなんやねん?と思ったら、谷川岳にある自殺行為だっつーくらいの難所中の難所らしいのだが、そんな危険な所を命がけで登っても羽生の個人的なスポンサーは現れなかった。
普段の生活振りというのも、山に入れ込み過ぎるから仕事はどれも長続きしないし、住む所なんかも必要最低限の部屋しか借りず生活は荒んでたという。
羽生の居場所は世間でいうまともな暮らしの中にはなかったのである。
そして自分と同じ事を、時に仲間にも激しく強要するため羽生は孤立していった。
特に後輩の岸が事故で亡くなってからはもう単独で登攀するようになったのである。
そんな中グランドジョラス冬季単独登攀中に滑落し怪我をしながらも強靭な精神力で生還した羽生は、41歳の時に念願の冬季エヴェレスト遠征メンバーとして参加する。
ところが第一次アタック隊に選ばれなかった事が承服できずに下山してしまい、そのまま消息を絶ったのであった。
深町は今40歳で年齢的に登山家としての限界を感じつつある。
東京では恋人とも破局してしまい人生の岐路にも立ってるわけだが、まだ心の底に燻る山への思いがあって懊悩しているのである。
まだ山を去りたくなかった。
そんな思いが羽生を追っかける事へと繋がり、羽生の激しい生き様に次第に魅かれるようになった深町は再びネパールへと渡る。
羽生は消息不明となったこの10年近い間ネパールの地にいたのであった。
もう50近い年齢である。
しかし深町は羽生は何かしようとしている、とにらんでいた。
それが「エヴェレスト南西壁冬季無酸素単独登頂」であると知った時、もう心臓がバクバクいうくらいの衝撃だったんである。
エヴェレストは中国とネパールの間に位置している。
最も山頂にたどり着ける可能性が高いのはノーマルルートと呼ばれるネパール側からの登り方だ。
一番難しいと言われるのが南西壁ルートと呼ばれるエヴェレストの南西側にある壁を登るルートで、南西壁はその名の通り岩の壁である。
登る人がいないからルートもできてないし、落石・雪崩が起きやすい。
現代のエヴェレスト登頂はシェルパの力が大変大きく、彼らが荷物を運びあげてくれてルートも作ってくれるのである。
それを誰の助けも借りず、酸素が地上の三分の一しかない場所で酸素ボンベを使わない無酸素で挑むというのである。
読んでて一番苛酷だと思ったのがこの無酸素だったのお。
酸素が少ないと人の脳は働かなくなり動きも緩慢になる。
自分では歩いてるつもりなのに気がつくと座りこんでたりするのである。
そして幻聴や幻覚に苦しめられたりもする。
この作品が一貫して問いかけるのは、人はなぜ山に登るのか?という事だ。
「そこに山があるからさ」という有名なセリフは前述のマロリーが言ったのである。
しかしもっと人が納得できるような明確な答えはないだろう。
それは山に登る人にしかわからないのだろうが、私にもわかる事もある。
一つの山を制したら次の山また次の山と目指さずにいられない、そういう精神を持つ人はいるのである。
答えがあるとするならきっとエヴェレストに何もかもあるのだろう。
余談だが、1999年実に消息を絶って75年後にエヴェレスト山頂付近の北壁でマロリーの遺体が発見されている。
でも遺体と共に残っていた持ち物の中にカメラは発見されなかった。
マロリーがエヴェレストに登頂したかは今持って不明なのである。