この物語の主人公の古田織部は戦国から江戸時代にかけて生きた武将で、千利休の弟子でもあった茶人である。
茶人て言うからシブいお人を想像してたんだけど全然違くて、なんかハラがチギれるほど面白い人なのよ。
安土桃山時代に流行した茶の湯では風流を楽しむ事を「数奇」と言い、中でも茶道具は貨幣的な価値を持ち政治にも利用された。
「名物」と言われる茶道具はそれ一個で城が買えるほどのどえらい値がついたのである。
時の権力者信長は「世の中を治めるには武だけでなく箔がいる。織田にとって朝廷であり名物群が箔である」などとのたまった。
天才信長は家臣に与える土地がもうないので、「名物」を報償として与えたのだ。
ちょっとー、茶碗とかもらってうれしいのかね。
でも信長マジックによって、この時代では「名物」を所有する事が一つのステータスなのである。
この長い作品は信長・秀吉・家康・秀忠に仕えた古田織部の「へうげもの」としての生き様を描いてるのだが、よくある歴史モノと違い「数奇」という側面を切り取り面白おかしく読ませる。
不思議なのは古田織部で、なんつーか「数奇」って趣味でしょ、ある意味趣味で出世していくんだけど、それがまた命がけなのよ。
前半では織田家に仕える織部(当時は古田左介)が武将として生きるべきか茶人として生きるべきか密かに悩んでいるのだが、冒頭で激しくも象徴的な二人の人物が登場する。
松永久秀と荒木村重だ。
左介は信貴山城に籠った松永久秀に、名物「平グモの茶釜」を渡せば裏切りを許すと交渉しろと信長から命じられるが、数奇者の左介は久秀の話も上の空で「平グモの茶釜」に目が釘付け(見るだけで大興奮)になってしまい「聞け!きさまあああ!!!」と怒られる。
久秀は死んでも信長には渡したくないと、茶釜を首からぶら下げ「信長よ涅槃で待つ」とつぶやき爆死する。
久秀は武人として滅びる道を選んだのである。
一方、荒木村重の謀反では城を捨てて逃げようとする村重を捕らえたものの、自慢の名物を夜逃げみたいに多数背負っていて、左介はその中の「荒木高麗」という名物の茶碗欲しさに村重を見逃してやる。
左介の欲の深さにあきれながらも失笑する。だって顔芸がスゴイ。
村重は武人としてのすべてを捨てて数奇の道を選んだのである。
後に荒木道糞(道端に落ちてる糞だよ)と名を変える村重に、たとえ卑屈になっても生きてさえいれば良い物を奏でられるわしの勝ちじゃと言われ、左介はその生き方に圧倒される。
しかしながら当時の人の価値観がよくわからんのお。
茶道具が人の生死を左右するなんて魔力か!そもそも茶碗なんぞに魂を奪われて滑稽でしかねーのだが、この時代では彼らのように武人として生きながらも「数奇」という趣味を持つ者たちが結構いてそれがカッコいいと思われてたんだよね。
だから自分こそが一番の数奇者だと悪目立ちしようとする人もいて、何してんのアンタ!?って思うけど本人はとても真剣なのだ。
真剣すぎてなんか笑えるのである。
世に知られた武将だけでなくこの時代の文化人や芸術家知ってる人も知らない人も超個性的に描かれていて、その数奇にかける思いにはこれまでとは違った日本人像を見るかもね。
左介は信長の茶頭である千利休に茶に招かれ弟子となる。
利休は茶人というよりも哲学者や宗教家といった風の偉人である。180センチ位あったらしい。茶室はちっちゃいのにね。
利休は唐物の名物茶道具を珍重する信長に対し、自分の価値観で作った黒の茶碗が至高である事を天下に証明しようとしていた。
秀吉と組み信長の世を終わらせようと企んでいたのである。
作中では「本能寺の変」は利休と秀吉が共謀したという説を取っている。
まあこれは特に真新しくもないのだが、いわゆる中国大返しのあまりの手際の良さから光秀は秀吉にそそのかされたのではないかという説だ。
光秀自身は、本心から家臣や民の行く末を思って信長を討ったのだが、動機がエラ過ぎて誰も光秀を信じない。
家康は明智こそ民のために一命を賭し太平の世を創るに必要な男、正義が破れてはならぬと援軍に行こうとしたができなかった。
光秀は最後に「死に近づけば近づくほど、わびもわかってくる」という利休の言葉を思い出すのである。
だが信長が死に豊臣政権が誕生すると、権力者となった秀吉は信長のように華やかな物や贅沢な物を欲するようになり、利休のわび茶とは次第に対立する。
利休は多くの大名にも影響力を持ち弟子からも慕われたが、切腹へと追い込まれてしまう。
後半は古田織部として利休に変わる御茶頭となり茶人としての自分の道を見出していく。
「人と違う事をせよ」という利休の教えに導かれて、利休の「わび」とは違う「へうげ」こそ己の在り方だと悟るのだ。
へうげる(ひょうげる)は剽げるとも書き、ふざけるおどけるの意味である。
真面目な「甲」ではなく、どこか抜けている「乙」を良しとするセンスはこの時代に似つかわしくない個性だ。
なんか思わずクスっと笑ってしまうのが良いと言うのは、感覚的なもので説明が難しいけど織部の感性に驚かされる。
だって武家社会に生きた人だよ。ひょうげものやべー
織部は利休の流れを汲みながら新たに独自の美を作り出そうとし、茶の湯、焼き物作り、作庭や建築などで「織部好み」という一大ムーブメントを巻き起こすのである。
だが極めようとしながらも、すごくユルいの、奥義は脱力なんだ。
そして「へうげ」で大事なのは「一笑」と言ってユーモアの事だ。
でもでも、信長や秀吉と違い家康を筆頭とした三河軍団は野暮でユーモアを解しない。
華やかで明るかった信長や秀吉の時代とは違って「へうげ」のわからぬ家康の天下は数奇者にとってはつまらぬ世なのだ。
それでも織部は怒りもいなして面白く生きようとする。
「へうげ」こそ人の和へと繋がると考えるからだ。
堅苦しい武家社会にあってもユーモアが大事だという感覚は、今に生きる我々にも通じるものだ。
歴史が流れてゆく中で、明智光秀や石田三成のように敗れてゆく者や信長や秀吉といった権力者の最後など、まさに歴史は人間の生と死で作られていて切ない。
笑えるし泣けるのだ。
実際の歴史と数奇者の面白さを上手い事絡めた本作は、この人しか描けない変な漫画という印象であたしは好みですわ。