手塚治虫が70年代に描いた「ばるぼら」はインモラルな匂いのする大人の漫画です。
主人公の美倉洋介がバルボラと出会う書き出しからして良いのだ。
都会が何千万という人間を飲み込んで消化し、
垂れ流した排泄物のような女
それがバルボラ
私が彼女に遭ったのは新宿駅
群集から少しはなれて、
柱のかげにうずくまった彼女を見て、
気分でも悪いのかと医務室へ連れてったのが最初である
と、来たもんだ。
当時はフーテンと言ったらしいですが、これはまあどう見ても薄汚れたホームレスの若い女です。
新宿駅で行き倒れになりながらヴェルレーヌの詩を口ずさんでいるという変わり者ですが、美倉はバルボラが気になり家に連れ帰ります。
30がらみの黒いサングラスをかけたニヒルな美倉は、耽美主義をかざし文壇にユニークな地位を築いた流行作家です。
実は美倉は異常性欲という人に知られたくない持病があって、外見は健康ですが日夜その苦しみに苛まれていたのです。
美倉のマンションへ居ついたバルボラは酒ばかり飲んではゴロゴロし、自分が汚くても気にせず勝手に美倉の金を使ったりとまったくだらしがないわけです。
美倉の生活はぶち壊しになり、なんでこんな女を置いておくんだろうと思います。
バルボラも彼と諍いが起こるたびに飛び出してしまうのですが、しばらくするとまたひょっこり戻ってくるのです。
どうにも奇妙な同棲生活ではありますが、なぜ美倉がバルボラを追い出せなかったかと言えば彼女はミューズだったのです。
ミューズとは薬用石鹸ではなく芸術の女神でして、かつて詩人たちはその詩の冒頭でミューズの名を呼び加護と成功を祈ったと言います。
こういう神は色んな姿で人間の前に現れるんですよね。
バルボラは他の芸術家の前にも現れていたことがわかりまして。
美倉もまるでバルボラに導かれるように「狼は鎖もて繋げ」という新作を書き上げ大ヒットしてしまいます。
ようやく彼女の存在価値がわかった美倉ですが、バルボラは突然目を疑うほどの成熟した美女に豹変します。
都会の排泄物とか言ってたくせに、今やめくるめく美女となったバルボラの虜でございます。
一方、美倉に娘をもらえとしつこかった代議士が都知事選に立候補するため後援会長を頼まれるんですが、内心は自分の名声を利用しようとしてるだけだと気が進みません。
すると代議士は突然倒れ重体になるのですが、美倉は部屋で呪いのブードゥー人形を見つけます。
どう考えてもそれはバルボラの仕業なんです。
美倉は今度はバルボラは現代に生きる魔女だと思い始めます。
美倉はバルボラと結婚しようとまで入れあげますが、バルボラは黒ミサ式の結婚式をするとか言い出します。
それがまた参加者が全裸でヤギの生贄が登場したりマリファナを回し飲む奇怪な結婚式でして、突如警察に踏み込まれ結婚式は中止となりバルボラは行方不明になってしまうのです。
さて、美倉が人知れず悩む異常性欲というものがイメージしにくいんですが、それが彼のジレンマでそのために刺激を求め夜の町を彷徨し女を求めるのです。
彼の恋の相手はデパートの美しいマネキン人形や、美女が連れたアフガンハウンドです。
(アフガンハウンドは高貴な大型犬ですが、そういえば時折散歩してるのを見かけると中に人が入ってそうな気がします)
つまり美倉の目には人形や犬が美しい人間の女のように映ってるわけでして、それを愛でるのですからこれは異常かつ耽美で幻想的。
恐らくこの異常な体験が美倉の作風なんでしょう。
でも流行作家というのは大変です。
サイン会やら講演会やらマスコミのインタビューやら、有名になった自分の名を利用しようとする者が現れるわ、ファンや取り巻きが家にやって来るわ、なかなか執筆に専念できません。
ふと生前の手塚治虫もこんな感じだったんだろうなと思いました。
クリエイターとしては天才だけど経営手腕という面ではまったくダメな人だったと言われてますから、雑念に振り回されるより漫画を描く事に専念したかったんじゃないでしょうか。
勝手に実印を持ち出したとバルボラをぶん殴る場面も意味深です。
実印の重要性を力説する美倉の姿に手塚治虫の実体験を垣間見る気がしました。
それにしても、手塚治虫の漫画はよく女をぶん殴ります。
前半は美倉の異常体験やバルボラの不思議な存在感がデカダンで耽美な怪奇物語です。
手塚治虫がこんな漫画描いてたのか~と、ちょっと驚くかも知れません。
惜しむらくはデカダンと手塚先生の絵柄はあんまり合わない気がしますが、本質からは1ミリも狂ってないからいいよね。
美倉がバルボラの虜になったあたりから急に現実味を帯び、後半は美倉洋介という小説家の狂気の物語です。
ミューズは時に気まぐれで芸術家としての純粋さを失なうと姿を消してしまったり、時に惚れっぽく才能のある芸術家に出会えばそっちへ行ってしまう。
バルボラが消え落ち目になった美倉は何年もバルボラを探し求め、ついに見つけるのですが彼の狂気がバルボラを殺してしまうのです。
絶望した美倉は自殺未遂しますが、バルボラの死体は見つからず新聞のどこを見ても事件など起こっていません。
ああバルボラに翻弄されているようで、すべては美倉の狂気が引き起こした事なのでしょうか。
そう考えるとバルボラでさえ本当にいたのだろうかと思ってしまうのです。
ラストで美倉は壮絶な体験を乗り越えて一つの小説を書き上げます。
その小説は「ばるぼら」という題で、書き出しは新宿駅でバルボラを拾うシーンで始まります。
つまりこの漫画のラストは、再び冒頭のシーンに巻き戻るという凝った作りなのです。
美倉は世間から姿を消してしまいますが小説は大ヒットするのです。
作家が消えても作品は残ると手塚治虫は言いたかったのかもしれません。