元寇は鎌倉時代の1274年及び1281年に、2度に渡り行われたモンゴル帝国の日本侵攻だ。
1度目を文永の役、2度目を弘安の役というが、漫画「アンゴルモア元寇合戦記」と続編である「 博多編」で描かれているのが文永の役である。
文永11年(1274年)10月。
元軍は続国である高麗軍と合わせ3万数千人もの軍勢を900艘もの大船団で日本に向けて出航し、10月5日対馬に襲来したが、対馬守護代・宗資国以下の対馬勢は圧倒的な兵力差で敗れてしまう。
この対馬で巻き起こった蒙古襲来事件を題材にしたのが「アンゴルモア元寇合戦記」でして、とても面白いのでアニメ化もされている。
次に、元軍は壱岐、肥前沿岸に襲来し、壱岐守護代・平景隆や肥前の御家人たちが応戦したが敗北。
世界最強モンゴル帝国の軍事力の前には、なす術もなかったのである。
10月20日、調子づいた元軍はついに博多湾に進軍して来た。
「博多編」は対馬での戦いに敗れた主人公・朽井迅三郎らのその後を描く物語だ。
博多で元軍を待ち受けるのは九州を中心とした4千人の武士団である。
蒙古襲来の情報を得て武士たちは続々と集結して来ていたのだ。
同じ日本の武士同士ならともかく初めて見る異国からの敵に、このピンチ鎌倉武士たちはいかに戦ったのか。
何はともあれ 日本軍総大将 少弐景資
兄の少弐経資がいるのに兄より目立ってるのは何故か。
迅三郎に源義経愛用の「今剣」をくれた人。(いまのつるぎは平安時代の刀工・三条宗近により作られたとされる短刀だが実在するかは不明)
少弐氏は対馬の守護で、景資は蒙古の襲来前に変装して対馬を訪れ、朽井迅三郎に援軍を送ると約束したのだが、共に九州の軍政を担当する大友頼康に本土防衛の遅れをとることを憂慮した父資能に妨害され援軍を送れなかった。
「博多編」では九州の御家人をまとめ合戦に臨む。
蒙古軍の副司令官・劉復亭に矢を命中させる大功を挙げた際は、俺の獲物なのにと不服そうな迅三郎に「早い者勝ちであろう?」と微笑んでみせるなどけっこう豪胆。
当時の博多はいくつもの入り江が入り組み、あちこちに広大な干潟が広がり、水の流れが中州や砂州を至る所に作っていた。
元軍はそういう地形もちゃんと調査していたのである。
日本軍が集結したのは博多の息の浜である。
なぜか兄の常資と弟の景資が大将を三日交替で代わるのが基本ルール。
総領なのに影が薄い兄。
(で、ご多分に漏れずそこはかとなく兄弟の確執が・・・)
またぞろ大きな合戦の後では勢力図が変わるのが武士の世界。
かつての源平合戦で平家方だった元々九州に地盤を持つ武士たちは、源氏方だった東国勢に抑え込まれ今は立場が弱い。
肥後の国を本拠としていた菊池一族10代目菊池武房は、早くも博多から後方の簑島へ追いやられてしまう。九州勢に手柄を立てさせないためだ。
日本勢は初めのうちは蒙古を侮って油断していたのか、博多湾早良区に上陸した元軍に赤坂山をあっけなく占領されてしまう。何やっとんねん。
かくなる上は一刻も早く奪い返さねばならぬのに、赤坂山周辺は足場が悪く馬に乗って弓を射るのに不向きだから俺は遠慮するわとキッパリ断る千葉頼胤みたいなのが出てくる。
関東の千葉から一族郎党率いて元寇のために出陣して来たから手柄をあげたい千葉。
鎌倉武士の戦い方はまずは馬からの矢の射撃。
矢が尽きると太刀による打ちあいで首を取り合う。
馬が走れないような戦場では武功があげられないと行きたがらない千葉に同調して、他の武士たちも動こうとしない。
鎌倉武士は何のために戦うのか。
それは手柄を立てて領地を貰うこと以外にはない。
戦に勝って新たな土地を手に入れると手柄のあった御家人に与えられるシステムだけど考えてみ。蒙古に勝って追っ払たとて与える土地なんぞないねん。
その頃、菊池勢陣営
偶然にも後ろに下げられたお陰で蒙古軍に一番近っ。
最初に動いたのは菊池武房である。
(ちなみに西郷隆盛は菊池一族の末裔らしい)
「者ども 名を惜しめ!坂東武者に蒙古の喰らい方教えたれ!」かっけー
菊池勢百騎のめっちゃ勇ましい働きで驚いた元軍は逃げて行った。
一方、誰も動こうとしない息の浜でのすったもんだにイライラする弱小御家人・竹崎季長
竹崎季長は肥後の国の御家人。
と言っても没落して親族家来合わせて5騎のみという小勢だ。
総大将の景資に先駆けを申し出るが、そんな小勢で何ができるかと自分たちは動こうともしないくせに竹崎を笑う東国勢を見て「弓箭の道、遮る訳にも参りますまい」と景資は先駆けを承諾した。
竹崎に先駆けの巧名を取られ、九州人に遅れを取るなと皆の重い腰がようやく上がる。
真っ先に出陣した竹崎一党は、赤坂での戦いに勝利して帰陣する菊池武房とすれ違った。
菊池の軍は足場の悪い場所で戦ったため、大将から郎党まで泥まみれに汚れ、討ち取った元兵の首をぶら下げていた。
竹崎の武功は先駆けだけで、すぐに負傷してしまうのだが、自身の戦い振りを鎌倉に訴えるため描かせた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物を遺した(これは竹崎が図々しいのではなく当時の武士はこんな感じ。竹崎個人は結構いい奴だと思う)。
元寇の歴史を知る一級資料を遺したのだ。
赤坂の戦いとこの鳥飼潟の戦いが文永の役の主戦闘とみなされている。
元軍はモンゴル人のみで構成されているわけではなく、その時々の被支配民族が戦争に駆り出される混成軍であり戦略的で統率が取れている。
日本の武士が「我こそは~」とか名乗りを上げてる時、元軍はまず矢の雨をブンブンと降らせて来る。
次いで日本には馴染みのない刺殺型の長柄武器(鉾)でドスドス突きまくって攻めて来る。
劣勢に転じた際には「てつはう」(火薬と鉄片を入れた炸裂弾)が使用された。
馬は臆病だからパニックになっちゃうし、初めて遭遇した異国の戦法に恐れを成す者もいた。
集団戦の元軍と違い、鎌倉武士は豪壮な大鎧を着けた身分の高い武士の周りを従者たちが固める構成で、各人の技量に頼る戦法だ。
それでも功を成し家名を上げるため、武士たちはなんとか戦い抜き元軍は撤退した。
文永の役の元軍の損害は13500人、座礁船約150艘。
鎌倉武士団の損害500人以上、武士以外は不明。
そして文永の役で伝説の神風はあったのだろうか?
なかっただろう、と現代では推測されている。
実は台風のシーズンではないし、あっても暴風雨くらいだろう。
神風っていうのは神道用語で、昭和日本の軍国主義といつの間にやら結びつけられたのではないか。
だから神風ではなく実力で鎌倉武士たちは元軍を破った(ギリだけど)と思ってよい。
しかしながら、元寇で恩賞を得られなかった御家人の不満が鎌倉幕府を衰退させてゆくのである。