「秋日子かく語りき」は1978年に週刊少女コミックに発表された作品です。
人は死んだらどこへ行くのでしょうか?
違う人間に生まれ変わって、もう一度生きる事なんてできるのでしょうか?
(大島弓子「秋日子かく語りき」)
あらすじはと言いますと冒頭二人の女性が登場します。
蓮畑の前でたたずむ中年女性と女子高生です。
二人は初対面で自己紹介します。
買い物かごを持った見るからにおばちゃんて感じの54歳の竜子と、清純そうな女子高生の秋日子は高2です。
実は二人は路上で暴走タクシーにはねられたのですが、秋日子の方はかすり傷と気絶ですみ死亡したのは竜子の方でした。
つまり二人が立ってる場所はあの世への入口なんですね。
やがて蓮の葉の上を歩いてこちらへやって来た神様のお使いと名乗る者が、秋日子がここへ来たのは間違いだから今すぐ自分の身体に戻りなさいと言います。
このお使いの人とっても軽妙なのね。
見るからに金髪美形だし「やあやあやあ来ましたか~」とか言ってにこやかなの。
ところが、自分が死んだなんて信じられない竜子おばちゃんは「いやですー!死にたくないー!!」とパニックになってしまうのです。
するとそれまで黙って見ていた秋日子が、しばらくの間自分の身体を竜子へ貸す事を提案します。
竜子は渡りに船とばかり、一週間後には必ず戻ってくるからと言い残して風のように立ち去ってしまうのでした。
さて、秋日子には薬子という親友がいます。
秋日子が事故から奇跡的に助かった事を喜んだのも束の間、彼女が以前とは全く変わってしまったと感じていました。
それはそうだよねー、秋日子の中身は54歳の中年女性なんですから。
以前の秋日子はあまりものを言わない、薬子との交換日記にも霞を食うようなつまらぬ事ばかり書いてくる少女でした。
今で言えば不思議ちゃんキャラなのね。
マイペースで不思議な感性を持ってて周囲とずれてる。
それが、授業中に教師の背広がバーゲン品だと独り言を言ったり、気分が悪いと嘘を言って医務室で眠ったり、人目も気にせずに大あくびしたりするんだから薬子でなくとも驚愕してしまいます。
それでも中身が竜子の秋日子は、あの世にいる秋日子が戻った時に迷惑がかからぬように、おばちゃんらしい律儀さで学校へ通いおばちゃんらしさを発揮してクラスメートを仕切ったりします。
どうやら悪い人ではないんだな。
最初は大人しい秋日子の人の好さに付け込んで逃げるように立ち去った姿に、なんて図々しいんだろうと思ったけれど。
そんな彼女の心残りは家族の事なんです。
しかし残された家族の様子を見に行くと、意外にも夫と二人の子供は悲嘆にくれてるわけでも困ってるわけでもないのです。
それどころか末の小学生の娘なんて「これからはみんなではめを外して生きようってお父さんが言ったんだ。夜中に好きなだけ起きてていいし、好きなだけテレビも見ていいし、毎週日曜日にはレストランに行くんだよ」とか言うわけですよ。
きっと常々早く寝なさいとか、テレビばっかり見てるんじゃないとか口うるさい母親だったんでしょうね。
でももちろん本人は家族の為にやってるつもりだったから、そんな風に言われて内心ショックを受けてしまいます。
それでも、そんな事言ってたら不良になっちゃうんじゃないかな~とか言いながら、家に上がり込んで食事を作ろうとすると、今度は大学生の息子が彼女を連れてくるんですよ。
その彼女が今夜の夕食を作ってくれるって言うんで、お父さん(竜子の夫ね)なんか慌てて帰宅したりね、もお秋日子(竜子)の存在なんて完全にスルーなんです。
彼女がいるなんて生きてる時には一言も言わなかったくせにって、そりゃ母親としたら面白くないですよね。
そして、夫が「フランクリン」と呼んでいたベンジャミンの鉢植えが枯れかけているのを発見し、家族にとって自分は何だったのかと大いに傷ついてしまうのです。
そこで秋日子(竜子)はクラスの男子の茂多に頼んで、フランクリンを盗み出そうとします。
だが泥棒と間違われ警察まで出動する騒ぎとなりますが、秋日子の行動を観察していた薬子の機転で二人は助かりフランクリンも持ち出す事ができます。
秋日子(竜子) は薬子と茂多にお礼だと箱入りのチョコレートを渡しますが、薬子はそんなおばさん儀礼は好きじゃない、菓子折りなんていらないとヘソを曲げてしまいます。
薬子は薬子で自分は秋日子にとって特別だと思ってるから、ただのクラスメートの茂多と自分が同じチョコレートというのが気に入らなかったんです。
秋日子(竜子)はその気持ちがわからなくて、菓子折りを贈る事がそんなに嫌なことなのかと思います。
その晩秋日子の家へ竜子の夫がやって来ます。
フランクリンを返してほしいと言うのです。
自分と亡き妻が育てた木で、なくなってみると我が家が我が家でなくなってしまったと語る夫に、秋日子(竜子)は泣きそうになりながら喜んでフランクリンを返すのです。
これからは、夫や子供たちはフランクリンにちゃんと水をやるでしょう。
亡き妻を、母を思い出して。
人は死んでも忘れ去られたくはないのです。
秋日子(竜子)は満足します。
もうこれで未練はないぞ、といよいよ約束の一週間まで残り45分となった時、秋日子(竜子)は最後に青春の象徴「フォークダンス」をやりたいと思いつき、深夜の校庭に友人たちを誘います。
・・・青春の象徴(笑)
フォークダンスとかラジカセにカセットテープとか時代を感じさせますな~。
夜空にヨハンシュトラウスの美しき青木ドナウがいざかかろうというその時、集まった友人たちの前で秋日子は倒れ、一瞬で目を覚まします。
竜子と秋日子が入れ替わったのです。
そして、あの世から戻った秋日子が語った事とは・・・・・
大島弓子の作品はどうにもチマチマした感じの作画と、花やらリボンやら何かフワフワした物が溢れた少女漫画らしい可愛らしさを持ってるのですが、その内容はけっこう「死」という物を扱った作品が多いのです。
それは人の死そのものではなく、死後の世界や転生や臨死体験などです。
でもこの作品にも見られるスピリチュアルな世界観は、決して怖い物や胡散臭い物ではなく、限りなく優しく温かい物です。
大島弓子は、萩尾望都や竹宮恵子などと共に「花の24年組」や「新感覚派」と称されました。
70年代にそれまでの少女漫画のイメージを一新するような革新的な漫画を描いた人たちです。
この人たちは前を走る少女漫画家はいませんから全く斬新だったわけですよ。
大島作品によく登場するのは純粋さゆえに大人になりきれない少女です。
それはたいてい天然や不思議ちゃんと思われて、周囲の人間をドン引きさせるかふざけてるんだと思われて笑われてしまいます。
しかし本人はいたって大真面目で、自分の痛さには全然気付いていないのです。
ああこれでは生きずらいだろうなって、なんか行き場のない感じが妙に心に深く刺さってくるような気がしちゃいます。
秋日子もまた、薬子のスカートのファスナーが開いているのに気が付くと、忠告する代わりに一日中薬子の横について歩き通したという、意味不明な恐るべきエピソードが描かれています。
チャック開いてるよって言えばいいのに~
大島弓子は難解です。
さて、秋日子は何を語ったのでしょう?
彼女の口から語られたのは、竜子は神様と共に行ってある国の次期王女に生まれ変わると言うのです。
人は死んだら皆、自分の好きな者に生まれ変わる事ができると。
それを聞いた友人たちは一様にホッとして、自分は何に生まれ変わろうなぞと思いを巡らします。
私もここを読んだ時死ぬのも悪くないなあと、死ぬ事が怖くなくなるような気がしました。
でもね、この漫画の骨頂はラストの薬子にありますのよ。
薬子だけは、この顛末は秋日子が作った自作自演だと言っておるのです。
そうして、花や蝶になりたいと言うのでなければ、自分たちは来世でなく今生でそれぞれの夢を叶えることができるのだという、力強い薬子の独白で終わります。
これはまったくどうした事か。
蓮畑で会った秋日子は竜子に身体を貸したんじゃなかったの?
一緒に事故に巻き込まれ自分だけが生き残った罪悪感で、秋日子はさも竜子のような振りを演じてただけだと言うのでしょうか?
わからん。
でも、蓮畑で私まだ死にたくないと騒いでた竜子さんが一週間後の約束の時には、満ち足りた気持ちで従容と死を迎えようとするのです。
あっけらかんとした明るさで、茂多に「好きだよ」なんて言われた事をへへへと思い出し笑いしたりして。
54年の人生よりこの6日間のおまけの方が大きかった気がするなって思うのです。
その姿は人間が自分の死を迎えようとする時の理想的な死に方なんじゃないのかな。
だから来世を夢見る事よりも今のこの人生を悔いなく生きよ、と言われてる気がします。
絶対的な価値観がないように、どう生きればよいかという指標もない時代に生きる私たちですが、生きるという事の本質は80年代も今も変わりないのだと思います。