これは、果てしなく広がる大自然に囲まれて汗と涙と土にまみれた農業高校生たちの異色の青春物語です。
青春なんてないやろ~、動物のウンコしかないやろ~とか思ってたら大間違いでした。
(荒川弘「銀の匙silverspoon」既刊14巻)
この作品の舞台は北海道帯広市にある大蝦夷農業高校(略してエゾノー)です。
この学校は農業科学科、酪農科学科、食品科学科、農業土木工学科、森林科学科がありまして、一口に農業高校と言っても色んな学科があるんですね。
私には全く未知の世界なんですが、全員が寮生活をしながら勉強し農場実習をする事になるのです。
その中でも特に実習が多いのが酪農科学科です。
農場では様々な家畜を扱っていて、生徒はローテーションで朝晩家畜の世話をしなければなりません。
生き物ですから基本農場は休みになる事はありません。
そんなエゾノーの酪農科学科に入学した八軒勇吾は札幌の進学校から一般受験でやって来ました。
その志望動機は、寮があるから・・・
まあ、家が嫌なんだろうね。
お年頃だもの、そういう事だってあるよね。
親父との葛藤とか、進学校での競争に疲れたとか、まだ子供なのにいっぱいいっぱいになって、現実から逃げるようにしてエゾノーにやって来てしまった八軒。
別に農業に興味があったわけではないんです。
農業高校に入学して来る子たちはちゃんと目標を持っていた
寮の相部屋で一緒になったのは、オタクの西川と食べる事が大好きな別府。
クラスメイトは、野球部で甲子園を目指す駒場、勉強がまるでできない常盤、血が苦手なのに獣医を目指してる相川、シビアでしっかり者のタマコ、等々個性的な面々が揃っており、馬が好きな御影アキの可愛さに思わず一目ぼれしてしまいます。
成績優秀な八軒は勉強でトップになってやろうと躍起になりますが、英語や数学の教科書の薄さに楽勝だとほくそ笑むものの専門教科(畜産とか)の教科書の極太さこそ真の敵だと知ります。
しかもその教科書さえも実際とは当てにならないから使わないと先生に言われ、春休みを利用して読み込んでいた八軒はがっかりしてしまいます。
そのうえ自分よりレベルが低そうだと思ったクラスメイトたちは、それぞれ家業の農業を継ぎたいとか、将来のビジョンや夢をきちんと持っていたので、家にいたくないとエゾノーにやって来てしまった八軒は内心引け目を感じてしまうのです。
命と触れ合う授業
しかしあれこれ悩む暇もないほど、授業は体力勝負の実習が多く、寮生活は朝の5時起床で牛や鶏の家畜舎での世話があったり入浴時間が15分だけだったりと、初めての経験に戸惑いながらも頑張る八軒がユーモラスに描かれてます。
元々お人好しで頼まれたら断れない八軒は、劣等生の常盤に勉強を教えてやったりと優しい性質なのですがそれ故弱い者を切り捨てたり見過ごす事ができません。
鶏や牛や豚の世話をする農業高校では産卵成績が悪い鶏は食肉用に淘汰され、牛も豚もいずれは食肉となるために飼育されています。
そんな経済動物への割り切れない思いにかられた八軒は「ペットじゃないんだから名前なんかつけちゃだめだよ!」と言うクラスメートの反対を押し切り子豚に「豚丼」と命名してしまうのです。
この漫画は八軒の成長物語であると共に、北海道の酪農家を実家に持ち自身も農業高校を卒業した作者ならではの農業高校生たちの青春グラフィティなんです。
しかしはっきり言ってこれはくさい汚い気持ち悪いの3Kですやん。
それでも彼らは明確な目的や夢を持ってるだけじゃなく、専門的な知識もちゃんと勉強してて実に真面目に取り組んでるんですよね。
若い人達が真摯に頑張ってる姿は本当にいいの。
農業の後継者の深刻な問題ってよく聞くけどこんな高校生達がいたら日本の農業の未来も捨てたもんじゃないよと思うほどです。
エゾノーの先生達もおおらかで素晴らしいです。
伸び伸びとした校風の中で農業体験をする事により人間性が高められ自主が育まれるんですよね。
なにより広大な敷地面積を持ち自然豊かなエゾノーでは美味いものだらけなのです。
ゴミ拾いで見つけた石窯(フツーこんな物は落ちてない)で、冷凍ピザしか食べた事がないと言う生徒たちの為に八軒が開く羽目になったピザ会では、小麦粉からトマトからチーズからベーコンまで全ての食材がエゾノー産という自給率の高さ。
石窯の修理も薪の調達も生徒の力でやっちゃうというね、すごいのね農業高校。
戦になったら籠城できるね。
農業の現実は厳しい
野球部で活躍する駒場の家が借金が返済できず大切な牛を売り離農する事になり、駒場は退学すると八軒は知ります。
クラスメイトは他人事ではなく、どの農家も借金や苦しい経営に悩んでいました。
自分が口を出す事ではないし、出してもどうにもならないとわかっていても駒場に関わらずにいられない八軒。
駒場が学校を退学しアルバイトで家計を助けようとする後ろ姿や荒れた手が、八軒はずっと忘れられないんです。
そして365日休みなく(生き物相手の酪農には休日はないのだ)働いて小さい子供まで駆り出されて、それなのに大学に進学するお金もない位稼ぎが少ないという農家の経営の仕方はおかしいと率直に言います。
八軒はサラリーマン家庭に育ちましたから、農家の当たり前が八軒には通じずその為彼の周りの人達は今まで考えた事もなかった問題に一石を投じられたりするのです。
綺麗ごとではなく、でも今置かれてる状況を仕方ない事だと諦めるのではなく悪戦苦闘しながらも一生懸命に悩む八軒の姿がとてもいいのです。
命との触れ合いや仲間との結束や寮生活など、普通科に通う高校生では決して経験できない事がたくさんあります。
この作品は休載が重なりなかなか話が進みませんが、作者は気にせずじっくりと描いて欲しいなあ。
タイトルの銀の匙ですがエゾノーの食堂の入り口には「銀の匙」が飾ってあるのです。
欧米では初めての食べ物を銀のスプーンで食べると一生食べるのに困らないと、出産祝いに銀のスプーンを送るんですよね。
どんなに不景気になっても食いっぱぐれる事はない農家の子はある意味「銀の匙」を持ってるようなもんだと言う記述がありますが、生きる事は食べる事なんですよね。
どんなに情報化社会が発展してもやっぱ基本は農業って事でしょうか。