「ゴールデンカムイ」はアイヌ民族がカッコ良くて面白くてとても魅力的に描かれてる。
あの漫画を読んでアイヌ文化に興味を抱いた人も少なくないと思う。
この映画は昨年上映されたんですが見る前は正直、漫画の「ゴールデンカムイ」は面白いけど、アイヌの実写映画は一応見たいかなくらいの感じでした。
勝手に暗いとか重そうって思い込んでたからなんですが「馬鹿だなあたし、こんなにいい映画だったのに・・・」見終わった時シミジミ思いましたわ。
まずはザックリあらすじを書いておきますと、14才のカント(下倉幹人)は北海道阿寒湖畔のアイヌコタンで母親と二人で暮らしてまして。
アイヌコタンとはアイヌの人たちが暮らす集落の事で、ここは道内にあるアイヌコタンの中でも一番大きく観光地になってるのだ。
しかし1年前の父の死をきっかけに、カントはアイヌ文化と距離を置くようになっていた。
カントくんたらちょうど難しいお年頃でして、友達と始めたバンドの練習に夢中になったり、来年に控えた高校進学は「高校はどこでもいいからとにかくこの土地から離れたい」つって、母親を狼狽させたりする。
この子が実際でもアイヌの血を引いているという事で、演技は初めてらしいのだがとてもいいのよ。
そんなカントに、亡くなった父の友人でありコミュニティの中心的人物であるデボ(秋辺デボ)は二人でキャンプへ行こうと誘う。
アイヌが「光の森」と呼んでいる森の先には洞穴があり、そこを抜けると向こう側では死んだ人たちが暮らしているんだって。
そう言って誘うけどカントはあまり乗り気でない。
なんとか言いくるめてキャンプへ連れ出したデボは、自然に育まれたアイヌの精神や文化を若いカントに教えようとしていた。
キャンプの帰り、カントは森の中の檻でデボが秘密で飼っている子熊を見せられる。
チビと名づけられた子熊の可愛さに、デボから世話を頼まれたカントすぐOKし(このへんがまだまだ子供らしいのお)チビに餌を運んだり世話をするうちに愛情が湧いてくるが、実はデボは長年行われていない熊送りの儀式・イオマンテをやろうとしていたのである。
とまあ14才の少年カントの目を通して描かれる現代に生きるアイヌの物語である。
始めはアイヌの人はどんな暮らしをしているんだろうという好奇心で見てしまうが、朝飯を食って学校へ行くカントはうちらと同じ生活で何もかわらん。当たり前だけどね。
でも自宅から一歩出れば観光地と化し物珍しそうに観光客がそぞろ歩く。
民芸品店を営む母親は、観光客から「日本語がお上手ですね」とか「あんたほんとにアイヌなの?」などと言われる。
その都度彼女は「なんでそんな事聞くの?」って言いたげな困ったような顔をちょっとする。
彼らは悪気があって言ってるわけじゃないんだけど、無意識的にアイヌを差別してる事に気づいていない。
すぐに何事もなかったようににこやかに応対する母親の姿を見ると、ああこういう差別は日常的にあるんだ。だからカントはこの土地を離れたい理由に「ここは普通じゃないから」って言ったんだなと思う。
もちろん狩猟などは誰もしてないし、アイヌの歴史や文化は今は観光として見せるだけだ。
そうやって生きてきた人たちの中に、デボが突然イオマンテをやりたいと言い出した事で波紋を呼んでしまう。
この作品の核となるイオマンテとは、アイヌの有名な祭りでヒグマの魂を神々の世界に送り返す儀礼である。
かつてアイヌの集落では冬の終わりに穴で冬眠しているヒグマを狩る猟が行われたが、母熊は殺して肉や毛皮を収穫するが子熊がいた場合は殺さずに集落に連れ帰った。
その子熊はみんなで可愛がって育て、授乳中の女性がいれば我が子同様に母乳を与える事もあったという。
子熊の成長と共に戸外で丸太を組んだ檻に移すが、餌も上等な物を与えやはり大切に育て、1,2年育てたら集落をあげて盛大なイオマンテの儀式を行う。
と、「ゴールデンカムイ」で読んだのを参考にして説明的に書いてみたけども、そんなに大事に子熊を育てて最後には殺すのだと知ると悄然としてしまう。
ここで重要なのはアイヌのイオマンテに対する考え方だと思うが、この儀式は肉を食べるために行うのではなく、子熊を神様に送り返す事によって熊たちが再び自分たちの元へやって来る事を祈願するみたいな(曖昧)祭りなのだ。
記録としては30年前に行われたのが最後だと言うが「俺たちアイヌにとって今イオマンテを行う事には意味がある」と、デボは説くのである。
しかしこのインパクトが強すぎるイベントには、コミュニティ内でも拒否反応が出る。
「自分たちはもう狩猟民族ではない。観光をなりわいとしているのにイオマンテをするなんて世間から許されない」と言う人。もっともな意見だ。
現代に生きるアイヌたちの様々な考え方や思いとか世代間のギャップとか、誰が正しいとか間違ってるとかじゃなく、みんなそれぞれ一理ある気がしてくる。
てか単純に熊がかわいそうだという感情も大いにある。
カントは「おまえの亡くなった父親もイオマンテをやりたいと言ってたぞ」とデボから聞かされて、父親が残した古いイオマンテの記録ビデオを見たら熊がかわいそうで最後まで見られなかったのよ。
こういうのも本当に人としての自然な感情だと思うし、この作品ではやりたい人もやりたくない人もそこにあるものをただ映すだけで押し付けや主張をしてこないとこが好感だ。
時の流れと共に消えていくものや変わっていくものがあるのは、これはもう仕方ないのかもしれない。
けど彼らが獲得してきた知恵や信仰や伝統的な世界観までも失われてしまう事は、今を生きるアイヌにとってのアイデンティティーに関わる。
結局やる事に決まると全員が協力して準備を始めるのだが、これがまた大変だし、イオマンテの最初から最後までドキュメンタリーのように見れるのもよかった。
ただ狩猟民族じゃなくなった彼らが果たして熊を殺せるんだろうかと気になり、これはやっぱセンシティブな問題だから際どいシーンは描かれてないんだけど非常に心がザワザワしてしまった。
毛皮つきの熊の顔が乗せられて運ばれてきただけで十分な衝撃でしたよ。
その頭を前にして儀式を行うのに、カタカナで書かれたカンペを見ながらってのには苦笑してしまった。
今は母語としてアイヌ語を話せる人はもういないからだ。
現代の日本社会に生きる我々は、牛や豚の肉を食べる時それが他の動物の命である事を忘れている。
たいていの人は殺された動物への感謝や敬意を感じたりはしてない。
自分で屠畜を行っていないから考える機会がないのだ。
熊の頭の前でアイヌは歌ったり踊ったりして延々と盛り上がり、最後に晴朗な空に向かい一本の矢を放った。
静けさと厳かさに包まれ子熊の魂は旅出ったんだなあと感じた。
それは人間が踏み込めない神聖な領域を覗いたような、ちょっとそんな感覚にも陥った。
異文化に触れるってこういう事かとも思った。