1987年に84歳で亡くなった作家の森茉莉は文豪・森鴎外の娘。
軽妙な語り口のエッセイを書く群ようこが1996年に発表した、森茉莉の生涯を辿った伝記小説。
(森茉莉 1903年~1987年 小説家・エッセイスト)
森家の長女として生まれた茉莉は蝶よ花よと育てられ、父の鴎外は茉莉を「お茉莉」と呼び、その溺愛っぷりは半端なかったそうです。
まあ男親が娘を可愛がる気持ちってのもわかりますが。
ええっ!?あの鴎外が?家ではそんなことを!と困惑しちゃうほど、その厳しいイメージとは全然違う超甘々な父親だった鴎外は、およそ親としての躾らしい事はまるっきり妻任せで、世の中の大事なこととか何も教えませんでした。
文豪も家に帰れば娘を甘やかすただのダメ親だったのですね~
しかし裕福な家庭の令嬢として育った茉莉にとって「パッパは恋人」であり、とても魅力的でいつも自分だけを優しく愛してくれる存在でした。
その存在があまりに偉大過ぎて彼女にとっては生涯、男性イコール父親だったわけです。
茉莉は16才で親が選んだ青年と見合いし結婚したのですが、結婚が決ってからも父親の膝の上に乗ってきたといいます(第三者から見たらどうにも気持ち悪いエピソード)
こんな仰天エピソードは数限りなくありますねん。
森家には前妻の子である兄(この方は祖母がキチンと育てた印象)と、同腹の妹・杏奴(あんぬ)と弟・類(るい)がいますが、きょうだいの本を読むと、なんかもう父である鴎外から誰が一番愛されていたかの争いが尋常じゃないんだって。自分が一番愛されてた!つって。
子供は成長と共に親からは離れていくものですが、森家の子供は皆いくつになっても大人になりきれなかった印象なのです。
そんな茉莉ですよって、結婚して人並みな主婦が務まるはずもなく、親バカの鴎外は茉莉が何もしなくていいような大金持ちの家に嫁がせました。
結婚に関してもまるっきり子供でしてね、結婚したての頃年末に母親が茉莉が役に立っているか婚家を訪ねた所、本人は羽根つきをしてたそうです。
茉莉によると、皆が忙しそうなので自分は遊んでた方が邪魔にならないと思ったそうであります。
19才の時に、フランス文学の勉強のため渡欧していた夫の後を追っておフランスへ。
渡欧先で大好きな父親の死を知ることになります。
しかしながら、みんながみんな結婚する時代だとは言え、やはり結婚に向く人と向かない人はいるものです。
茉莉はどう見ても結婚には向かず、男の子を二人生みましたが置いて家を出て離婚しました。
また、27才の時に医者と再婚して仙台に住みましたが翌年離婚しています。
「仙台には銀座や三越もないんですの」と仙台暮らしを嫌う茉莉は「じゃあ実家に帰って芝居でも見ておいで」と送り出されてそのまま離縁されたのだということです。
なんか大変な人もいたもんだ。
結局の所、茉莉が求めるのは父のような男性なのですが、そんなものは現実にいやせんがの。
結婚に失敗した所で気づきそうなものですが、この人はもしかしたらそういう現実は知らぬが仏で、気づきたくなかったのかもしれんな。
彼女は年を取っても夢と空想の中にいる永遠の少女でして、父の思い出を美しいままで保ち続け、それがエッセイになり小説になりました。
茉莉は38才の時に家を出て一人暮らしを始めています。
経済的に困窮してたみたいですが、父が森鴎外なのに遺産とかなかったのだろうか?
詳しい事は書いてなかったのでわかりませんが、50才を過ぎて本格的な文筆業に入ったのも、鴎外の印税が切れたからでした。
そういう意味ではお嬢様暮らしや優しい父親がずっといたら、彼女の作品もなかったかもしれませんな。
父に溺愛されたお嬢様が安アパートで一人暮らす後半生を、茉莉がどう感じてたかは誰にもわかりませんが、こんなはずではなかったなどという卑しい気持ちはきっとなかっただろうと群さんは書いています。
何しろ、茉莉が唯一無二の輝きを見せるのはその後半生なのですから。
贅沢というのは高価なものを持っているということではなく、贅沢な精神を持っているということ。
茉莉は狭いアパートの室内を、人が見たらガラクタの山でもアンティークの調度品として飾り、眺めては暮らしました。
「ニスを塗った進駐軍の払い下げの寝台」「ボッティチェリの宗教画の色彩を取り入れた蒲団カバー」「硝子のミルク入れ」「アリナミンの小瓶に立てた燃え残りの蝋燭」「今にも消え去りそうな羊の横顔が底に沈んでいる洋杯」・・・
金を使ってやる贅沢には創造の喜びがないと、他人がどう言おうと、それらは茉莉にとって美しいものであり、作家としてのインスピレーションを与えてくれるものでした。
自分の美意識にかなった世界に浸りきる暮らしは素敵に思えます。
しかし、整理は苦手でした。
部屋はいわゆる汚部屋となり、足元に積み上げた新聞や雑誌やゴミは土と化しました(どんなの~⁇)
そんなにひどい状態なのに彼女はこの部屋が好きで「ここにはインドの永劫がある」と言って、片付けようなどとは思わなかったらしい。
昭和62年、この伝説的な部屋で孤独死しているのが見つかり、世間はゴミに埋もれて亡くなったと報じました。
そして美形好きでした。
映画スターのピーター・オトゥールやアラン・ドロンがお気に入りで、ドロンがなんちゃらいう俳優さんとベッドで寄り添ってる写真に萌えたり、腐女子の走りですな。
そういったお宝写真や切り抜きなどが茉莉の執筆エナジーでした。
離婚して別れた息子たちと大人になって再会し、息子が心配してこの部屋を掃除させて欲しいと言っても、小説を書くためにはこの部屋が必要だからと断っています。
「恋人たちの森」や「枯葉の寝床」などの名作はこの部屋から生まれたのです。
俺の神本である「枯葉の寝床」はまだBLなどというジャンルのない時代、昭和37年に発表された有名な耽美的少年愛小説ですが、漢字が非常に難しいのです。
でも小説よりもエッセイが面白いと知りました。
昭和38年に刊行された「贅沢貧乏」は、物質的には貧乏でも魂は贅沢な「精神の貴族」としての暮らしぶりを、自由で軽妙な筆致で綴ったエッセイです。
風呂もなくトイレは共同のボロアパートで、茉莉はそこに住んでる人たちを「痰吐き族」とあだ名をつけて嫌いました。
戦後は、戦争前とは人の価値観から何から様々なものが変わってしまったのです。
彼女が言う「痰吐き族」とは、小金を貯めて家を買う。子供をいい学校へ入れようと奔走する。食べるものは他人からはわからないからとインスタントもので済ます。ブランドもののスーツは少しでも安い物を求めてアウトレットで買う。人から見える所ばかり取り繕い、中身のない、礼儀もなってない、頭の悪い、お金があるのに貧乏くさい人たち。(ムムム、あたいのことかしらん?)
彼女はプンプンと静かに怒りながら、口に出して言えない鬱憤を原稿を書く事で晴らしました。
それなのに引っ越そうとはせず、怒りながらも自分の心が休まるものを頭の中で作っていったのです。
貧乏でも汚部屋に住んでても、心は貴族かフランス人。
見かけだけ贅沢で心は貧乏な現代人の生活を侮蔑しながら、自身は典雅艶麗な夢の中に暮らしました。
世間の常識に囚われず、人から何を言われてものんきで気にしない。
鈍いような図々しいような「私は私だから」って胸を張ってる感じがしないでもない。
群さんは、茉莉と自分との類似点や、自分だったらこうするのにとかの自分語りをやたら入れて来るのが、ちょっとウザいです。
さすがの群さんも、森茉莉と比べてしまうとなんか薄っぺらいし、まだまだだなと感じてしまう。
独身の群さんにとって森茉莉の暮らしぶりは将来の手本だったようです。
でも晩年の茉莉は部屋に鏡を置かなかったといいます。
そして家政婦さんに「一人暮らしは本当に嫌ね」と言ったと、あの森茉莉でさえそう思うのかと群さんは愕然としています。