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大人の漫画読み

漫画/「松かげに憩う」③ 天瀬シオリ 感想

松下村塾の当時の松陰は27才くらいの書生であり藩の罪人であり実家の杉家に禁錮中の身で外出の自由もありませんでした。

その松陰がなぜそれほど松下村塾の門下生たちにやがては長州藩にそして社会に影響を与えるようになったのでしょうか?うむむ吉田松陰のどこがそんなにすごいのかを描いた漫画「松かげに憩う」③巻が刊行されましたのでなんとはなく感想を書く次第です。

(天瀬シオリ「松かげに憩う」3巻)

作者が松陰先生の漫画を描くことにしたきっかけは7年前、新選組が好きだったので京都で新選組巡りをした帰りの新幹線の中での友人との会話。「いうて幕末わからん事いっぱいあってさー、長州藩とか実はよく立ち位置わかってないんだよね~」「わかるー」「吉田松陰とかどんな人なのか全然知らんし」「たしかに!ひまだから調べよう」「・・・・・・・幕末の狂人」「ええっ」「・・・決め台詞は・・・諸君狂いたまえ・・・」それで好きになってしまったらしく本当にこれがきっかけだそうですよ。

ところで「ここは今から倫理です。」などでも男性をセクシーに描く作者ですから、やはり松陰先生も男の色気ムンムンでして果たして吉田松陰がこれほどセクシーな男性だったのかは疑問符が付く所ですが、まあ史実を基にしたフィクションなのですから多少デフォルメ過多でもよいかもしれません。

①巻の冒頭では足軽以下の貧しい中間(ちゅうげん)である伊藤(後の博文16才)が松下村塾にやって来ますがたいそう卑屈なので、松陰は身分などという誰かが作った枠組みに従って生きるなど愚かだ志を持てもっと狂え(作者いわく決めゼリフですね)と迫力満点で言い放ち伊藤をビビらせます。と思ったらもう次の章では江戸で刑死するくだりです。

時系列でなく歴史を行ったり来たりしながら実際に起きた事件や逸話を描いてゆくという構成で、松陰門下の高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤俊輔らが若き日に触れた松陰の思い出、松陰はどんな人だったのか、そして彼の死後弟子たちはどう生きたかが描かれていくのです。

たとえば人を食ったようなイメージの高杉ですら(高杉は松陰が江戸小伝馬町の牢に入った時江戸にいて牢名主に渡す金子の工面から手紙の取り次ぎ読みたいという本の調達など懸命に尽くしました)獄中で松陰が読みたいと言った「徒然草」がどうしても見つからず死後貸本屋の店先で偶然「徒然草」を見た時もう松陰がこの世にいない事を実感し滂沱の涙を流すのです。

松陰が処刑されてから3年後の文久3年(高杉25才です)幕府は安政の大獄で刑死した者の遺骨を改装する事を許し松陰の遺骨を小塚原より若林村(現世田谷松陰神社)に改葬する事とし高杉、久坂、伊藤他数名で掘り起こし骨を甕に納め千住回向院から浅草を過ぎ上野三枚橋にさしかかります。

三枚橋の真ん中は御成橋で不浄のものの通過を許さぬよう厳重な番人が置かれています。

馬に跨って先駆する高杉は堂々と御成橋を渡ろうとし驚いて制止しようとした番人に大喝「黙れっ!殉国の志士吉田松陰先生の悲運の遺骸を改葬するためここを通る」と怒鳴りつけ番人がまごまごしてる間に一行は御成橋を押し渡ったのです。

白昼堂々と幕府の権威を踏みにじる高杉の頭の中は幕府なんて馬鹿馬鹿しいわいくらいのものでして、そんな高杉を見た久坂は思います。

松陰が言う「狂」とは行動性や気概というものでして、狂人にならねば革命など成し得ません。もはや議論ばかりしてても何も変わらないのですから。

松陰が撒いた「狂」の種はついに高杉たちに芽吹き彼らは松下村塾系グループとして一派を成し、いよいよ長州藩あげての攘夷狂いの幕が開くのです。

稀有なことに松陰は当時の社会の常識を破り塾生全員の身分を無視し自らも師弟という表現を避け弟子たちのことを友人と言いました。

ですが「狂」を愛し激しい情念を燃やす師の理解に苦しむ行為に翻弄され吉田稔麿のようについて行けなくなってしまった者も出ました。

秀才と謳われ松陰からその才を愛された吉田でさえもう無理となってしまったんですから松陰はどんなに悲しかったことでしょうか。

それでも師と弟子とを超えた松陰との人間的な繋がりは死後も切れることはなく吉田は池田屋で非業の死を遂げることになります。

その時吉田にもまた松陰の「狂」が。これはまさに動乱の世に邂逅した人間の絆であり、そうして江戸時代の武士には友情という概念はなかったと聞きますが彼らにはあったように感じてなりません。

➂巻のラストは松陰が門下生たちに宛てた遺書「留魂録」をめぐる物語です。

「留魂録」は松陰が処刑前日に書いた遺書で念のために2冊作成し、1冊は萩に届けられ門下生の間で回し読みされましたがしばらくして消息不明となってしまいました。

もう1冊は牢名主の沼崎吉五郎が17年間保管し明治になってから門下生の野村靖の元へ届けられたのです。(現存しているのはこの留魂録です)

松陰はどこにいても先生で自分の知っていることはすべて教えました。

死ぬ間際まで「至誠」ということを唱えた松陰の人格の片鱗をのぞかせます。

「至誠」とは誠意を尽くすことで誠の心を持って事に当たればどんな相手にもいつかは理解してもらえるという信念です。

けれど私もこの年になってみてわかることですが、どんなに腹を割って話してもわかり合えない人間はいるものです。それが松陰の甘さというか人の良さ逆に人間的魅力でもあるのです。

松陰という星はなんと大きく純粋だったことか。