akのもろもろの話

大人の漫画読み

漫画/「五色の舟」近藤ようこ 感想

川辺に舫った舟で暮らす見世物一座の5人はお父さんと昭助兄さんと清子さん、そして和郎(かずお)と桜です。お父さんは下駄屋で生まれたという人と牛のあいのこ「くだん」の噂を聞き買い取って仲間に加えようと一座を連れ岩国までやって来ます。

しかし未来を予言するという「くだん」は既に軍部の手に渡った後でして大枚をはたいてから接収されるよりはマシだと諦めるしかありません。

ところが和郎はトラックに乗せられた「くだん」の荷台を覆う帆布の隙間から覗く目が自分を見ていることに気づき、その日から同じような夢ばかり見るようになるのです。

(近藤ようこ「五色の舟」)

お父さんはかつて旅芝居の売れっ子女形で雪乃助と言いましたが脱疽で下肢を失い役者の道を絶たれました。ある日杖が折れて河原に転落し足に縛り付けていた義足もすっ飛び役者の命の顔にも傷をつけああもう死んでやると水まで這って行ったところ顔に濡れ紙を貼られた赤ん坊を見つけたのです。

驚き抱きあげるとずっしりと重くてこの子は普通の赤ん坊じゃない特別な子だと気づきます。赤ん坊はすっかり冷たくなっていましたがお父さんは再び地べたに戻す気がしなくなり、このまま朝まで懐に入れて暖めても息を吹き返さなかったら一緒に水に入ろうと決めます。それが大人になっても背が伸びない怪力一寸法師の昭助兄さんです。

桜は上半身が二つ下半身が一つの姿で生まれてきて片割れが死に桜も死にかけていたのをお父さんが親に掛け合いもらい受け、犬飼先生に分離手術してもらって命を取り留めました。座敷牢に閉じ込められ誰からも話しかけられなかった桜は喋ることが出来ず体はくの字に曲がったままなので、お父さんは蛇女として皮膚に鱗模様を描き蛙を飲み込む芸を覚えさせました。

腕無しの和郎は舟の側に捨てられていた子で物心ついた時から押し入れの闇しか知りませんでした。両腕がなく肩から指だけが生えていて、足は手のように器用で箸も使えるし絵も描けるのですが耳が聞こえないため話せません。

最後に仲間になった清子さんは膝の関節が逆についている牛女でして、一座の興行を見てたら家族みたいだったから自分も仲間に入れて欲しいと言って来たのです。

生まれついての異形から親に捨てられあるいは病で世間から隔絶され見世物となり生きる5人はまるで家族のように小さな舟で肩を寄せ合い暮らしています。

戦時下で派手な興行は出来なくなった代わりに密かに呼びつける旦那の数は増え一晩の興行で充分な報酬をもらえ5人は飢えることもなく何か起これば舟で逃げてしまえばいいと空襲の恐怖もあまり感じていませんでした。

桜のもう一つの大仕事は別料金を払ったお客にまぐわいを見せることで相手をするのは和郎の仕事でした。眺めるだけでは満足せず桜を抱きたがるお客も少なくありませんでしたがお父さんは決して頷きませんでした。

昨年逝去された津原泰水の短編小説(11elevenに収録)を近藤ようこが漫画化、原作小説は2014年「SFマガジン」700号記念「オールタイム・ベストSF」で国内短編部門一位となった作品で、漫画の方も第18回(2014年)文化庁メディア芸術祭マンガ部門で大賞をとりました。

原作はSFとして高い評価を得ているようですが味わいは幻想怪奇譚といったところでしょうか。

メイドインアビスがあまりにグロで苛酷な話だからああいう可愛らしい絵柄でないと読み進められないのと一緒で、見世物一座という惨めで残酷な存在が近藤ようこの優しい筆致にかかるとなんとも端正で美しくファンタジーを見てるようです。

音のない世界に生きる和郎は桜とだけは二人だけの特別な言葉で話すことが出来ます(一種のテレパシーでしょうか)また和郎は耳が聞こえなくても他人が何を言っているのかがわかります。

けれど話せないもどかしさから周囲の世界はぼんやりとした曖昧模糊なものになっていて、お父さんが「くだん」を買おうとするのを見て漠然と不安を感じたりします。

「くだん」は江戸時代から幾度となく出現の記録が見られる予言獣でして、コロナ禍でアマビエが流行りましたように世情が不安になると顔を出す妖怪で牛の体に人間の顔を持ち話すことができます。昭和18年には山口県岩国市のある下駄屋にくだんが生まれ戦争の終結を予言したと言われています。

和郎は繰り返し同じ夢を見るようになり、きっとこれは「くだん」の仕業に違いないと思います。

それは家族が乗る舟が沖で他の舟とぶつかりそうになりお父さんが(昭助兄さんか清子さんの時もある)向こうの舟に乗り移ってしまうのですが、舟の中を見ると家族が全員揃っているという夢です。

この舟の夢はクライマックスの「くだん」に導かれて不思議な平行世界への乗り換えを予知するような夢になっていますが、夢の情景はこの異形の家族が夢幻のような境を彷徨っていてそこに自分も迷い込んだような感覚になるのです。

その夢の内容を和郎と桜が伝えようとして、和郎は足で舟の絵を描き桜が必死で説明しようと「ふね」と声に出すシーンは非常にもどかしくも苦しいものです。

それでいて桜が喋ったと無邪気に喜ぶ昭助兄さんとお父さんと清子さんの姿は家族愛が溢れていて感動的ですらあり、これは家族の物語として読むととても物哀しいのです。

夢だったり異形だったり舟だったり家族愛だったり多重な設定が妙味です。