天才ダンサーの裏切りを許さなかったパトロン
1890年、ヴァーツラフ・ニジンスキーはロシア帝国キエフ(現ウクライナ)に生まれた。
両親はポーランド人でドサ回りのダンサー。
3人兄妹の真ん中で、幼い頃に父親は若い愛人と出奔してしまった。
9才でサンクトペテルブルクのロシア帝室マリインスキー劇場付属舞踊学校に入学すると、めきめき頭角を現したニジンスキーはその輝かしい才能で「もはや何も教えるものはない」と言われるほどでして、卒業後はマリインスキー劇場の主役に抜擢。
ただどうも多動っぽい子どもだったらしい。
たくましい肉体と中性的な身のこなし、なにより卓抜した技術は跳躍力で「空中で止まって見えた」と言われる。
どの位高く飛んだのか、実に見てみたいものだが、残念ながら踊っている映像は一つも残されていない。
それもまた彼を伝説化してるのである。
しかしまあ天才アルアルだが、バレエ以外の日常の生活はまるで赤子で何もできなかった。
畢竟、彼がダンサーとして世に出るためには、彼を支えてくれその才能を引き出し売り出してくれる人物がどうしても必要だった。
それがセルゲイ・ディアギレフであり、ニジンスキーの成功は彼あってこそだ。
ディアギレフは1872年にロシアのペルミで裕福な地方貴族の家に生まれた。
ペテルブルグ大学の法科に入学したが芸術家志望で、しかしすぐに才能がない事に気づき自らが芸術家になるよりもプロデュースする側に才を見出した。
ディアギレフはロシアの芸術運動の中心となり、母の遺産を元手に西欧の絵画を収集し展覧会を成功させた後は、絵画から音楽へオペラやバレエへと関心は移って行った。
当時のロシアはいかに花形ダンサーでも社会的に力を持つ者の庇護が必要でしてね、男でも女でもパトロンに支援されるのが一般的。
最初ニジンスキーは大富豪のパヴェル・リヴォフ侯爵の愛人となったが、一年もしないうちに飽きられ、物みたいにディアギレフに譲られたのである。
いずれロシアの至宝と呼ばれる天才も、価値のわからない者にとっては単なる石ころでしかなかったわけだ。
ディアギレフには僥倖が飛び込んで来たようなもの。
革命前の機運に乗りロシアバレエをパリに持ち込もうとしてたディアギレフは、ちょうどニジンスキーに出演交渉したかったのよ。
これは運命を感じちゃうよね。
それに同性愛の恋人だった従兄弟のドミトリー・フィロソーフォフを女に奪われハートブレイクでもあった。
かくしてディアギレフが主宰するロシアバレエ団「バレエ・リュス」は旗揚げとあいなったのである。
2人の関係が深まったのは1909年のパリ公演で、ニジンスキーは39度の高熱で舞台に立っていた。
実はチフスに罹っていたのに、倒れるまで自分が病気だと気づかなかった。
この伝染病に周囲は震え上がったがディアギレフは感染も恐れず親身になって看病した。
その上で「一緒に暮らそう」と持ちかけ、病気で弱っていたニジンスキーは逃げきれずに同意するしかなかった。
1909年5月にシャトレ座で行われたパリ公演は大成功。
その頃のフランスでは、バレエは低俗でバレリーナは娼婦ぐらいにしか思われてなかったのだが、ディアギレフはロシアから帝室マリインスキー劇場のバレエを丸ごとパリに持って来てその芸術性の高さを見せつけた。
ロダンもコクトーもプルーストもパリを代表する芸術家たちは「バレエ・リュス」に魅了された。
人呼んで「天才を見つける天才」と言われたディアギレフは多くの芸術家を動員し総合芸術としてのバレエを確立していった。
ニジンスキーは一躍大スターとなり、ディアギレフとの仲は公然であった。
若く才能ある青年を一流の芸術に触れさせ育成する癖のあるディアギレフはニジンスキーの身も心も愛したが、それと共に完全に支配していた。
だがニジンスキーは表面上はディアギレフに従いながら、どこか別な所を見ているようだった。
人を容赦なく切り捨てる非情な面も持つディアギレフは、もうフォーキンの振り付けは古いと言い出しニジンスキーに振り付けをするよう勧めた。
ディアギレフの目のつけ所はいつも鋭い。
1912年5月にニジンスキーの振り付けと主演で初演された「牧神の午後」ほどセンセーショナルなものはなかった。
画期的過ぎて観客は戸惑い、しかしながらこの作品は別の意味でも物議を醸した。
牧神がニンフを誘惑しようとして逃げられ、ニンフが残していったべールの上に横たわりマスターベーションするというクライマックスに、観客は凍り付き賛否両論の嵐だった。
だがディアギレフはロダンがニジンスキーを絶賛したのを利用し、このスキャンダルを上手く収めた。
牧神の午後は大成功を収めた。
パリで成功すれば世界で成功したのと同じだった。
1913年「バレエ・リュス」は南米公演を行い、その航海中にニジンスキーは自分の大ファンで「バレエ・リュス」の押しかけ団員にまでなったハンガリー貴族の令嬢ロモラ・プリスキと電撃結婚した。
この報せを受けたディアギレフは激怒し、看板スターのニジンスキーを「バレエ・リュス」から解雇。
2人が徹底的に異なるのはディアギレフはゲイでありニジンスキーはバイだということだ。
似て非なるゲイとバイセクシャル。
ゲイではなく別の恋愛脳も持ってるニジンスキーが女と結婚してしまい、ディアギレフは手酷い裏切りだと感じたに違いない。
一体この船旅でニジンスキーの心にどんな変化があったのか。
それまでロモラの名さえ知らなかったらしいよ。
自分はディアギレフの操り人形じゃないと証明したかったのか。
愛を求めていたのか。
この後、ニジンスキーは次第に精神を病んでしまったから誰にもわからない。
解雇されたニジンスキーは新たなバレエ団を旗揚げするも、世間に疎くコミュ障気味な芸術家気質のニジンスキーには至難の業だ。
失敗し心労から鬱になり、ディアギレフとの決別で思い知らされた現実はあまりにも厳しく孤立し追いつめられて行った。
ディアギレフはニジンスキーを許さなかったのである。
奇行が目立つようになり1919年のスイス公演の後、精神病院に入院し二度と舞台に立つことはなかった。
ニジンスキーの60年の生涯のうち30年は狂気の闇となった。