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大人の漫画読み

映画/「天城越え」懐かし映画感想

1983年(昭和58年)の松本清張の短編小説が原作のサスペンス映画。

(1983年/99分/三村晴彦監督)

あなたと越えたい天城越え

静岡で印刷屋を営む小野寺(平幹二郎)のもとへ田島と名乗る老人(渡瀬恒彦)が訪れ、ある印刷を依頼するがそれは「天城山の土工殺し事件」に関する物だった。

なぜか小野寺は激しく動揺し、そこから30年前の回想が始まるのだ。

 

昭和15年夏、下田。

14才だった小野寺少年(伊藤洋一)は母と叔父の情事を目撃し亡き父を裏切った母が許せず、静岡にいる兄の所へ行こうと下田から天城峠を越えた。

鬱蒼とした山の中を出会った旅の呉服屋と同道したが、男と別れると寂しい山中にひとりとなり日も暮れてきたので怖くなって下田へ戻ろうと考える。

そこへ修善寺の方角から早足で歩く若い女ハナ(田中裕子)がやって来たので、ひとりで引き返す心細さから救われハナの後をついて歩き、やがて「兄さんはどこまで行くの?」と問われ下田まで一緒に行くことになった。

少年は美しいハナに母親の面影を感じ取り共に歩いたが、彼女は行きずりの土工を見ると無理矢理少年と別れて男と行ってしまう。

気になって密かに後を追うと、草むらで情交している2人を目撃。

その土工が死体で発見された事でハナが容疑者として逮捕されてしまう。

目撃証言から裸足で草履を帯に挟んだ急ぎ足の女と、土工らしき男と、少年がその日天城山に登っており、ハナが土工の金を持っていた事もわかる。

金は土工が泊まった宿の亭主が恵んでやった一円札で、札の裏に「この人をよろしく」と記してあった。

さらに現場近くの氷倉のおが屑の上で九文半ほどの裸足の足跡が見つかり、ハナの足も九文半だった。

 

 

とまあそんなあらすじだが、九文半は22.5センチだ。

足ちっちぇー

少年は憧れの目で見てたけど、実はハナは足抜けして来た売春婦で、金を払わない男と揉めて殺害し金を奪って逃走した。

という話を警察にでっち上げられてしまったわけで。

刑事役の渡瀬さんが「どこう」「どこう」と言うのが意味がわからずどこうってなんやねんとずっと思ってたあたし。土木作業員のことだった。

渡瀬の取り調べが厳しくてハナが便所に行くことも許さない➡漏らす

厳しい取り調べで寝かせないと言うのは聞いたことあるが便所行かせないというのは何?

モレチャウ、モレチャウ、しゃべりますよ!とかなるかな?

ぬーん渡瀬さんに腹が立った。

ハナは金のために男と関係したが殺人はしてないと強く訴えたが、執拗な取り調べに疲れてゆき、自分の話を警察は信じないのだと思い始める。

絶望から自分が殺したと嘘の自白をする。

怖いわねー。

「22.5センチの足跡は女だ」という思い込みによる不当な取り調べで犯行を自白させられた典型的な冤罪だ。

 

それにしても特筆すべきは田中裕子さんが美しくて驚き。

田中裕子さんと言えば、是枝監督の「怪物」での棒読み謝罪には爆笑したが、人生に疲れ果てた役の多い田中さんの若き日がこんなに麗しかったとは。

着物の着崩し方ひとつ取っても、ふしだらな感じがめっちゃ出てて巧い。

ハナは強気ではすっぱで、それでいて小野寺少年には優しくて、どこか誘惑してるかのような妖艶さ。

もう思春期の餓鬼にはたまらんな。

被害者には気の毒だが殺人事件の犯人を追うサスペンスと言うより、少年の性の目覚めを軸に淡い初恋の愛と憎がとんでもねえ事態を引き起こしちゃった話だな。

雨の中、冤罪なのに引き立てられてゆき笠を振り落として少年に声もなくつぶやくハナの名シーン。

この作品は田中裕子さんの演技を賞賛するだけで良いのではないか?

今観ると暗くて後味の悪い映画だ。

それにエログロシーンが無駄に長いねん。

これが昭和イズムか。

(お美しい裕子さん)

ハナは取り調べを受けてるうちに、犯人はあの少年だと気づいたのだ。

何もかもわかって少年の罪を被った、ように見えた。

結局のところ証拠不十分で無罪となったハナは、釈放後すぐに流行り病で亡くなり、その顔は「菩薩のように美しかった」という事である。

 

かつて天城越えは難所で、下田方面から修善寺の方へ行くには通常は大きく迂回しなければならなかった。

伊豆半島南部は海と天城山麓に囲まれ半島の先で孤立してるような有り様だったのである。

そこで1905年(明治38年)に切り開かれたのが天城山隧道で、これにより半島南部と内陸は多くの人や物資が行き来できるようになったのである。ヨカッタ。ヨカッタ。

(旧天城トンネル)

まるで異世界の入り口を思わせる天城トンネル。

天城の美しいロケーションも最高だけど、映画ではなんか時系列がよくわからなかった。

で、松本清張の原作も読んでみた。

「天城越え」は松本清張が実際の「静岡県刑事資料」から着想を得た作品で、映画とはまったく趣が違う。

映画のキモは30年前の少年と女の交流で、そこに焦点を当てて描かれていた。

まさに「私はあなたの少年の日の心の中にいた青春の幻影」のごとく描いてるのに対し、原作はすごいアッサリ。

今でも事件を追い続ける田島刑事が現れるまで「私」は事件の事はすっかり忘れてたみたいで、女の素性が「修善寺の売春婦」だったと初めて知るし、罪の意識とかも持ってない。

ハナが自分を犠牲にして警察から少年を庇う姿が印象的だったけどそういうのもないし、母親の性行為を見てしまったことで孤独に陥っていたが、そういう感傷的な描写もナッシング。

「私」が男を殺した理由は「私」は小さい頃に母親が父親でない男と性行為をしているのを見たことがあり、それを思い出し「自分の女が土工に奪われた」みたいな気になったから。と、ラスト近くで初めて母親の性行為云々の話が出てくる。

また「大男の流しの土工に、他国の恐ろしさを象徴して感じていた」とある。

「他国」の恐ろしさ。

天城トンネルの向こう側は「他国」という今の時代の人間にはわかりずらい感覚。

「私」に対してもわからなさばかりが残ったが、そもそも犯罪を犯した人の心理をわかろうとする事自体が無理なんである。

それでいて名作と思わせる松本清張の底知れなさ。

映画はとってもわかりやすく作られていたわけだ。

ちなみに石川さゆりの「天城越え」は全然関係にゃい。