akのもろもろの話

大人の漫画読み

漫画/「綿の国星」大島弓子 もう一度読みたい名作漫画

「綿の国星」は1978年から1987年にかけて白泉社「LaLa」にて連載。

擬人化された白い子猫「チビ猫」を主人公とした短編連作集。

(「綿の国星」全4巻 大島弓子 白泉社文庫)

人間にとって猫とは?

大島弓子の代表作と言えば「綿の国星」だと思うんだが、何度読んでも面白いのよ。

昔の漫画なのに今読んでもちっとも古びていない。

大島弓子の作風はどうにもチマチマした感じのコマに、花やらリボンやら何かフワフワした可愛くて繊細なもので溢れている。

優しく幸福感に満ちた世界に読者を連れて行き、時折泣きたくなるような切なさで一杯にしたり、「なんかよくわからんけど深いっ」と思わせたりする。

そうして「綿の国星」を読む度に、いつか猫と暮らしてみたいなーと思うのだが、その実ワシは猫アレルギーなのである。

 

飼い主に捨てられ雨の中で寒さに震えていた子猫は、少女漫画らしい美形の男の子・須和野時夫に拾われチビと名付けられる。

チビ猫は、いつか大人になったら人間になれると信じている。

優しい時夫に恋心を抱くが、緑色の目に銀の毛を持つ美しいカリスマ銀猫「ラフィエル」が現れ、猫は人間にはなれないと教えられる。

さらにラフィエルに連れてかれた竹林で、老衰で死んだ猫の死骸まで見せられ、もう早い段階で夢を壊され「猫は猫として死ぬのだ」という現実を突きつけられる。 

ラフィエル曰く、猫は猫のまま「綿の国」に旅立って行き、そこには目も覚めるような美しい猫の姫「ホワイトフィールド」がいて優しく接吻してくれるそうな。

猫界のトップオブプリンス・ラフィエルは「おまえは成長したらすこぶる美猫になるだろう」と予言するが、まだ幼いチビ猫にラフィエルはちょっと冷酷すぎだ。

「おれと旅に出よう」と誘われちゃうが、「猫の直感ってあたし信じてないんだ!悪いけど」と叫ぶなり一目散に走り去る。

 

まず特徴的なのは、お猫様たちは擬人化された姿で登場する。

頭にはかわいく猫耳が描かれ、人間の言葉で会話する。

人間には猫の言葉は「ニャー」としか聞こえず猫の姿にしか見えてないが、猫は人間の言葉を理解している設定。

チビ猫は巻き毛にエプロン付きドレスの幼女という、いにしえの少女漫画な出で立ちでして、猫耳キャラの元祖だとも言われてるが単なる萌え要素だけじゃない。

「綿の国星」は猫と人間のとても奥深い物語なのだ。

須和野家は物書きのお父さんと専業主婦のお母さんと浪人生の時夫だ。

時夫は体調不良で大学受験を失敗してから死にたいと考えてる。

お母さんは猫アレルギーで(ってか、猫恐怖症!?)チビ猫に触る事もできないのだが、塞ぎ込んでた息子が、猫の面倒を見ている時だけは明るい顔を見せるのに気づき、猫アレルギーを克服しようと奮闘する。

生きる力を失った人間が子猫との触れ合いで気力を取り戻し、やがて時夫は「ひっつめみつあみ」という素敵な女の子に恋をするんだな。

人間になれないんだから時夫とつきあえるわけないやん、ワンチャンないで。と、ラフィエルに言われてはいたが、チビ猫にはショックだ。

だがチビ猫は悩んだ末に、時夫とみつあみをくっつけようと画策する。

須和野一家がとてもいい人たちだったから、彼らの事が大好きになったから。

自ら身を引きラフィエルと旅に出ようと決めるが、あの竹林でいくら待っても、なんでか「カモーン」と不思議な声がするだけでラフィエルは迎えに来ない。

その時、遂に猫アレルギーを克服したお母さんが迎えに現れ、防災頭巾にモンペ姿という完全装備(猫恐怖症のため)で、跪いてチビ猫を抱きしめるシーンがめっちゃ感動的なのである。

チビ猫を抱きしめる事は、見失いそうになってた息子を抱きしめる事なのだ。たぶん。

 

ここまで書いてみたけど、「なんちゅう甘ったるい話じゃ・・・」と、いかにも少女漫画チックな取っ掛かりに、拒否反応が出た人はおらんかの?

もしくは大島弓子の世界が独特過ぎてわからないという御仁もいるのだ。

だがまあ、女子高生や中学生のフシギちゃんやイタイ人が主人公でなし、読みやすくなってるし、素直に楽しめますよって。

ファンタジックな中に象徴的な語り口で、須和野チビ猫の視点から見た猫社会や人間が描かれている。

最初こそチビ猫の成長物語だが、中盤以降になるとチビ猫も須和野家の人も全く登場しない回も出てくる。

全然違う猫と人間の物語でして、1話完結の短編としてどれも完成度が高いんで、3巻あたりから読んでみるのも乙である。

 

飼い猫の中には去勢された猫もいる。

ヨーデル猫(チビ猫には発情期の鳴き声がヨーデルのように聞こえたから)に「育てられなかったり捨てたりするよりは初めから産まない方がいいだろ」と説明されたチビ猫は、人間の決めた都合に腹を立てるが、ヨーデル猫は「現実はこうなんだ」と言う。

いいとか悪いとかじゃなく、去勢も出産も死も自然な事として猫たちは生きている。

「人間の都合で去勢される猫はかわいそう」などと考えるのは、猫に対する罪悪感から人間が思っているだけに過ぎないのかもしれない。

24年組でも竹宮恵子や萩尾望都と違い大島弓子はほとんど顔出ししない。

猫好きで「サバ」や「グーグー」など作品にもなった猫と暮らしながら、人の目線で猫の日常を見たり、猫の視線で人の日常を見たり、自由に行き来するうちに猫に対する独自の世界観を持つようになったんじゃないかな。

猫と人間の時間軸の違いという視点もユニークで、飼い主の子どもが高校生になるまでの間に、猫は赤ん坊から少年になり青年になり中年へと変わって行く。

猫にとっては姉のようだった飼い主が、いつの間にか同い年になり自分の娘みたいになってしまうのだ。

猫と人間の関係性は様々で、とてつもなくひどいのは22話の「ねのくに」だ。

ある団地でペットの飼育が禁止となり、犬猫がすべて抹殺され猫の呪いが団地を壊滅させてしまうというね。

でもなんでこんな話を描いたのかしらね。

最終話「椿の木の下で」も怖い。

須和野家に新しい猫・天茶が拾われて来て、チビ猫の地位が脅かされるのよ。

チビ猫はこれまで皆に可愛がられて来て、アイドルの座は永遠だと思ってる。

その座を乗っ取ろうと企む天茶は、なんと病気で動けない振りをしていたずらをし、罪をチビ猫になすりつけて追い出そうとするのよ。

チビ猫がどんなに須和野家の人に訴えても届かず誤解されたまま。

猫は人間の言葉をわかるが、人間には「ニャー」としか聞こえない設定が生きて、チビ猫と須和野一家の気持ちはすれ違う。

畢竟、須和野家を追放されそうになるのである。

 

人間が猫を愛し猫も人間を愛す事で様々な事件が起きて、笑ったり胸に沁みたり遣る瀬なくなったり忙しい。

数多ある猫の漫画の中でも珠玉の名作なのよ。

猫は野良猫にだってなれるし自由に生きる事だってできる。

でもね、気まぐれだなどと言われようと、きっと人間から愛されることも好きなのだ。

人間が猫を愛するように猫も人間を愛しているのである。

やっぱ猫飼いてえ~