akのもろもろの話

大人の漫画読み

漫画/「アドルフに告ぐ」手塚治虫 もう一度読みたい名作漫画

1936年8月、ベルリンオリンピック。

歴史に残る棒高跳び決勝が行なわれている頃、ベルリン大学近くの下宿で一人の日本人留学生が殺された。

アドルフ・ヒットラーの出生にまつわる、ある秘密を握ったからだ。

 

                 

(手塚治虫「アドルフに告ぐ」)

 

この物語には3人のアドルフが登場する。

1人目は言わずと知れた、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒットラー。

そしてあとの2人は、ユダヤ系ドイツ人のパン屋の息子アドルフ・カミルと、ドイツ人の父と日本人の母を持つアドルフ・カウフマンだ。

2人が日本の神戸に住んでた少年時代、カウフマンはいつも日本人の子供からいじめられては泣いて帰って来た。

一方、カミルはと言えば、懸命に日本人になりきろうと頑張るが、彼の頑張りを日本の子供たちは認めない。

子供の世界でも何かにつけて差別されるのである。

それでもカミルは、いじめられるカウフマンを助けてくれたり励ましてくれたりする。2人は親友なのだ。

ところが日本の総領事館員のカウフマンの父親はナチス党員だから、劣等民族であるユダヤ人のカミルとはつきあうなと厳しく命じてくる。

「カミルとは仲良しなのになんで?」

幼いカウフマンには、父親の言ってる意味が理解できなかった。

 

ヒットラー出生の秘密を示す証拠書類はひそかに日本へ送られ、殺された留学生の兄である峠草平の手に渡る。

この物語の狂言回しとなる峠草平は新聞記者だが、ゲシュタポのランプや日本の特高警察の赤羽からも追われる身となり、勤めていた通信社も辞めさせられ住む場所も失くし追いつめられて行く。

 

1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。

神戸に住んでいた頃は高圧的な父親に怯え、優しい日本人の母親に甘え、ユダヤ人を嫌いになれと教えるヒットラーユーゲントには入りたくないと涙を流したカウフマン。

父の死去に伴い、母と別れ一人ぼっちでドイツに留学した彼は、純粋なドイツ民族の血を賛美する教育の中で、日本人との混血である事に悩まされるようになる。

そしてカミルとの友情に苦しみながら、やがてはユダヤ人迫害へと手を染めるようになってしまう。

一方、神戸に住むカミル一家にも、ユダヤ人迫害の手は刻一刻と迫ってきていた。

 

とまあ、こんなあらすじなのですが、「アドルフに告ぐ」は1983年から1985年にかけて漫画雑誌ではなく「週刊文春」で連載されました。

「アドルフ・ヒットラーにはユダヤ人の血が流れている」という説を前提として描かれているのですが、これは手塚治虫の創作ではなく、当時こういう説が本当にあったらしいです。

「もしこれが事実ならばヒットラーはこの汚点を必死で隠そうとしたに違いない!」と考えた手塚治虫が、日本とドイツをまたにかけ、綿密な設定でナチス・ドイツ興亡の時代に迫った歴史漫画です。

ストーリー漫画の第一人者だと言われるだけあって、もう読み応えタップリ。

どうも最近の連載漫画って、取って付けたような展開になったり途中から迷走したりキャラを死なせるべき時に死なせられなかったりして、なんか物足りない今日この頃。

キャラ設定や世界観も大事だけど、最も重要なのはストーリーちゃう?って言いたい俺である。

 

手塚治虫は宝塚市出身だから神戸は目と鼻の先でありまして、作中でも戦前戦後の神戸の町が写実的に描かれております。

自らも戦争体験者ですよって、B29の焼夷弾が神戸に落ちる場面は非常にリアルです。

空襲警報が鳴って防空壕の中に入り息を潜めていると、上空にB29が飛んでくるゴォンゴォンていう不気味な太鼓のような音が遠くから響いて来るのです。

その音が段々大きくなって真上に来ると防空壕の中の人たちには緊迫感が走り、中には顔を伏せて祈っている人もいます。

その音が通り過ぎて行くと、ああ良かったとホッとするわけですが、しかしその爆弾はどこか違う場所で落とされるのです。

 

寡婦となったカウフマンの母親は自宅を改装してドイツ料理店を開こうとしますが、「物価統制令管理闇価格査察委員」とかいうじいさんがやって来まして、国民がひとしく窮乏に耐えてる時に非常識だと威張りだし、スープか雑炊しか出せなくなります。

日本人の小学校に通ったカミルの恩師である小城先生は、反戦的な詩を書いただけでアカだと決めつけられ特高につけ回されます。

当時「銭湯の冗談も筒抜けになる」とまで言われた、特高の監視や取り締まりの恐ろしさ。

特高やゲシュタポの執拗で非人道的な行為は、手塚治虫の丸っこいタッチを持ってしても見るに耐えないほど残酷ですねん。

 

そんな暗い抑圧された時代であっても、人は恋をするし女は赤ん坊を産むんだよね。

戦いを知らない新しい命が育っていき、戦争で何もかも失くしても精一杯生きようとする人間の姿に、手塚治虫の反戦への思いを感じます。

 

アドルフ・ヒットラー・シューレ(ナチス幹部を養成する学校ね)へ入学し、そこで次第に変わっていくカウフマン。

あんなに優しい子だったカウフマンは絶えず苦悩し続け、偶然再会したカミルの父親を殺してしまいます。

純血のドイツ人でないが為に自分の忠誠が疑われていると感じ、それはユダヤ人を殺す事でしか証明できなかったからです。

ブレーキが利かなくなったように次々とユダヤ人殺害へ手を染めるようになったカウフマンは、やがてヒットラーのお気に入りの側近となります。

そうして、ヒットラーの人柄や孤独な側面を間近で見るようになり、ついには出生の秘密を知ってしまうのです。

自分にユダヤ人の血が入っているからこそ、ヒットラーは狂ったように悩んでいるんだ・・・・

自身も異民族との混血であるカウフマンは、そんなヒットラーを憐れみ何としても自分が総統を守らねばと決意します。

その結果カウフマンは、ユダヤ人も日本人も見下すような、心の底からナチズムに支配されてしまうのです。

だからヒットラーが死んで戦争が終わると、人生をかけた国家もイデオロギーも無くし、命がけで手に入れた文書はゴミクズとなり何もかも失ってしまいます。

 

でもね、手塚治虫がすごいのはここで終わらせない所なんですよ。

戦争は終わっても歴史は続く。

第二次世界大戦が終わりナチスが崩壊すると、ユダヤ人難民たちは自分たちの祖国をパレスチナに建設しようとし、1948年にイスラエル共和国を建国します。

パレスチナには、もともと宗教も風俗もユダヤ人とは異なるアラブ民族が住んでいたのですから、すんなりとイスラエル建国を認めるわけがなく、こうして宿命の長い長い紛争の火蓋が切られました。

果てしない攻防戦と限りなく破壊される町と無差別なテロと多くの人の死と報復と・・・

ユダヤ人はやっと手に入れた祖国を守る為に、アラブ人は自分たちが住んでいた土地を取り返す為に、それぞれの正義を振りかざし戦いました。

皮肉にも、かつてはナチの残虐行為に追われ被害者だったはずのユダヤ人が、今ではナチス以上の残虐行為を行う加害者となってしまっているのです。

 

カミルはイスラエル建国にその身を捧げ、カウフマンはナチスの残党狩りから逃れながらパレスチナ解放戦線に身を投じます。

かつて親友だった2人はそれぞれの人生を生き、数奇な運命により今は敵同士になってしまう。

カミルとの対決を前に「おれの人生は何だったんだろう」と一人つぶやくカウフマン。いとあわれ。

彼もまた被害者なのではないかと思うけれど、そう言うにはあまりにも多くのユダヤ人を殺し過ぎちゃったんだよね。

正義って何だろう。

おまえの正義はオレの正義じゃねえぜっつって、いつまでも平行線のまま。

自分たちに正義があることを証明するためには、戦争に勝つよりほかないんだろうか。

でも正義が戦争の勝利で証明されるなんて考えは違いますよね?

大人はその事を子供にどうやって教えればいいんだろうか。

それこそが手塚治虫がこの作品の中で言いたかった大きなテーマだと思うのです。