過疎化の進んだ限界集落の村を乗っ取ろうとした新興宗教「薬師療会」で怪しげな幻覚剤を使われてから、紐倉哲は義手である右腕の幻肢痛の再発に悩まされていた。
幻肢痛は手や足の切断後に失ったはずの手足が存在するように感じられ、言わばその幻の手足が痛いという不思議な現象だ。
存在しない右腕が痛いなんて・・・どうすりゃいいんだよ
人の体って、かくも不思議で悲しくもあるよね。
紐倉は幻覚剤で己の過去を見た事によってPTSDを発症していた。
悪夢に苦しみ酒や薬物を乱用するようになった紐倉の異変を心配した高家春馬はEMDRという心理療法を紐倉に勧める。
さすがの紐倉先生も今回ばかりは素直に治療に応じましてね、今まで紐倉先生が時折見せた怒りを飲み込んだような表情に隠された秘密が、彼が右腕を失った過去がとうとう明らかになるこの巻。
PTSDを発症するほどの過去の自分の記憶に侵入して真実に向き合う紐倉の姿が印象的だ。
ともあれ高家が連れて来た精神科医が行うEMDR治療がスゴイ。
EMDRっつーのは有効なトラウマ治療で、左右に振られる指などを目で追う眼球運動を行いながら過去のトラウマ体験を思い出すという心理療法だ。
あなたは段々眠くなる~ってペンダントとか振るヤツか!?それはちげー
私は指は使いませんつって、その精神科医が出したのはライト・バーで光が左右に行ったり来たりする。
それを目で追う眼球運動の後に精神科医の質問に答え、さらに眼球運動をする事を繰り返しながら、記憶の引き出しからポジティブな面を引き出していくんだ。
眼球を左右に動かす事で、脳を直接的に刺激し脳が本来持ってる情報処理能力を活性させるという事らしい。
ううむ、目の動きから心が見えてくるとはねえ。
人間は体験した出来事をそのまま記憶するわけではない。
自分なりに咀嚼し理解して正しい場所に記憶する。
たとえば「素晴らしい体験だった」「悪いのは自分ではない」「自分ではどうしようもなかった」という風に。
しかしあまりに強い心的外傷体験は理解が追いつかず、それらは咀嚼されず素材のまま記憶のネットワークの中に保存されるのだ。
紐倉は思い出す。
まだ右手があった頃、友人だった入谷の事。
入谷はアメリカ陸軍感染症医学研究所に勤務していた時の同僚だった。
そこには若き紐倉が、まだ寄生虫研究に転向したばかりでコスタリカで発見した例のかゆみ止めも発売されてない、優秀だが金はなく若さと希望に溢れた紐倉がいた。
紐倉と入谷。若い科学者二人は親しくなり共に語り合い心を通わせ、紐倉の青春も垣間見える。
だが紐倉は実はFBIに、バイオテロを計画するテロリストの科学者がいるから探れと半ば無理矢理に潜入捜査させられていたのである。
EMDR療法の正確なメカニズムはわかってないが、不快な記憶を思い出しながら眼球運動をすると気分が楽になったり、記憶が正確に順序だてて思い出せたりするようになるんだって。へえ
不快な記憶とは一つとは限らない。
連想でどんどん出てくる場合が多いらしい。こわいわ~
難病のクローン病を患う入谷は寄生虫のアメリカ鉤虫に感染させる事で免疫系を変化させクローン病の症状改善のための実験的治療に取り組んでいた。
そう言えば「ぎょう虫検査」なんつーものも今は廃止されていて、日本の子供の寄生虫感染率は激減している。
日本や欧米など先進国では寄生虫などの寄生者はほとんどいないもの。
でも近年アメリカでは、根絶している寄生虫を国外に探しに行きあえて感染する、という事をやる人がいるらしい。
わざわざ感染症のリスクを冒すのは、免疫疾患の難病であるクローン病や潰瘍性大腸炎などは免疫の暴走によって引き起こされるのだが、そもそもなぜ免疫が暴走するのか現代医療ではわからないから難病なのである。
そこには健康な人間にはわからない言いようもない苦しみがあるに違いない。
入谷は寄生虫が専門の紐倉に助力を願い自分の体にアメリカ鉤虫を感染させた。
寄生虫が免疫疾患に効果があるとはどういう事か?
自己免疫疾患やアレルギー疾患を抱える人は先進国に爆発的に増えている。
これは民族の問題や単純に先進国が清潔すぎるのが問題というわけではなく、寄生虫が免疫の暴走を防いでいたのではないかという仮説である。
しかも寄生虫のいない清潔な生活が現代人の免疫のバランスを崩し様々な疾患をひきおこしているならば、バイ菌を撒いて汚染すればいいんじゃね!?とチョット大雑把な大規模テロを企んでいたのが入谷だったというね。
いやまあ話が面白いんであたしもサクサク書いちゃったけども、全バレする前にやめとこ。
残念ながらこの巻で完結でして、ちょっと最後の方はページ数が足りなかったのかな~と思うほど唐突な終わり方でしたな。
正直なとこ絵はちょっとなんだな稚拙だけども、この作者の作品は飽きずに最後まで読ませて期待を裏切らない。
何しろ漫画を描く以前に資料を読んだり下調べとかに相当の労力を使ってるだろうし、素人には難解な医療ネタをわかりやすく描くのも大変な事だと思う。
連載途中でネタ切れしないかなと心配になっちゃった位、全力投球してくる漫画家の真摯な姿勢を読んでて感じられるのは、読み手として嬉しい体験だ。
この作品は様々な医療事件とミステリーがうまく融合していて、変わり者の天才科学者紐倉のキャラも秀逸だったよね。
医療や科学がどんなに進歩したって、しょせんはそれを扱う人間によって良くも悪くもなる。
大きな出来事の裏側にある人間のドラマに焦点を当てる事でまた違った面が見えてくるのである。
そんな謎を追う面白さと同時に、いかにも身近に起こりそうな所がまたコワかったりして、読むの楽しみだったな。うん。